耳の底に沈む色

高橋悠治

眼に見える形をくらべることは一瞬でできる。耳で聞いた動きの形を記憶するには時間がかかり、その間に形が変わっても、だいたい同じとみなせるのは、手を動かしてその形をなぞっているか、その動きを思い浮かべるだけでも、手のなかに何か動く感じが起こるとき、その動きを覚えているときかもしれない。

鍵盤の上の指、弦を押さえる指の位置、管の横の指孔の位置と指の組み合わせ、また吹き込む息の速さと強さ、そうした小さな違いから、短3度と長3度は、距離の違いだけではない、「音色」の違い、それは何百年もかけて作り上げられた「伝統」のなかで、それに従い、反発しながらも保たれてきた尺度、その基準を変えることが、どうしたらできるのか。そもそも変える必要がどこにあるのか。

世界や社会が変わっていくなかで、風景も変わり、時間の過ごし方も変わっていく。

一つの全体があり、そのいくつかの要素の違う組み合わせを、ページをめくるように次々に見せていく、という見る本ではなく、手で触る表面を耳で確かめる道と、曲がり角ごとに、踏み出さない脇道を残した、一つの行き方を顕しておく、そんな音楽のスケッチができないかと、いろいろ試してみるが、今までのところ、満足できる結果は得られないでいる。だが、「満足できる」という言い方は何だろう。

「繰り返し」のような主張や協調でなく、変化しながら続く一本の線というより、滑らかに過ぎてしまう時間ではなく、トゲの多い枝が、収まるべき場所が見つからないまま、身震いを続けている、言い直しと、綴れ織の時間に飛び散るかけらの、躓きと乱反射と影の乱れを、書き残し、次に進む手がかりを、そこここに伺わせるように、不完全なままに投げ出しておく、と今は言っているだけで、もしかしたら、考えただけでなく、それを口にしてしまうと、やらないで済ますことに終わるのだろう。考えたり、言ったり書いたりしないで、手が動くままに任せることが、どうしたらできるのか、と思う前に、手が動き、耳がいくつかの動きを掬い上げ、そこから違う動きがひとりでに始まらなければ、知らない土地には出られない、と言ってみる。その言い方も、道を塞ぐ石の、もう一つにならないだろうか。