掠れ書き14(わらの犬)

高橋悠治

ジョン・グレイの『わらの犬』(Straw Dogs)」(2002)という本を読んで 老子の天地不仁、以万物為芻狗ということばを知る。そこで老子を読み、最近発見された馬王堆漢墓の『老子帛書』や郭店楚簡まで目を通してみた。

このことばはいちばん古い郭店楚簡(紀元前3世紀)にはない。馬王堆の二種類の帛書(前168年)にはある。『老子』は戦国時代に言い伝えられたことばのコラージュだから、どこかからまぎれこんできたのだろう。「世界に慈悲はない、すべてはわらの犬のように捨てられる」というのは一般的だが、そうでない訳もあり、英訳老子は123種、その他の言語でも無数の訳がある。解釈の数はさらに多い。

これらのことばの集まりである『老子』を統一された思想と考えるよりは、それぞれの断片が読む人の思いを映す鏡としてはたらくと思いたい。すべては揺れ動いて停まらない。不安定な大地と戦乱の世界には、信じられるような原理もなければ、それを信じる自分もいない。落ちかかってくる偶然を切り抜けながら生きていくのは身体の知恵で、意識や心、まして思想や信条ではないだろう。科学は仮説にすぎないし、現実にあわなければ、「わらの犬」のように捨てられる。それでも受身ではいられない。とりあえずの仮説を次々に脱ぎ捨てながら、身体というシステムを維持していく

普遍的な人間のありかたや、人間であることの特別な意義が感じられない時代に、さまざまな生きかたがあり、それらのあいだで折り合いをつけながらやっていくよりないとすれば、グレイのいうホッブス的modus vivendi (とりあえずの共存協定)は、老子のいう「道」、弱くしなやかに受け流すやりかた、またはエピクロスの「庭」、一時的な自律領域(ハキム・ベイのTAZ)かもしれない、決まった方向も目標もなく、意味や論理で差別することのない、ゆるやかな結びつきのなかで、ちがう位置から世界を観て、一歩ごとにたしかめながら、すこしずつうごいていくことになるのだろうか。

書いていると聞こえてくる、音にならない音楽。微かに白く、遠い空間、前後との差しかなく、切れながらつながる時間。ほとんど連句のような。