掠れ書き15(刺ある響き)

高橋悠治

アルチュセールの出会いの唯物論からエピクロスを思い出し、クリナメンから明滅するオドラーデックにたどりつき、カフカのノートやヴィトゲンシュタインの綴じてないページの束、マトゥラーナの循環するオートポイエーシス、と、むかし一度は触れた飛び石に、別な回路でもう一度出会う。

棒ではじき出された磨かれた金属球が釘にぶつかりながら、逸れて思いがけない囲いに転げ込むコリント・ゲームは、子どものころにはあった。わずかな盤の傾きが、最初の一撃だけで見捨てられた球のうごきを惰性で決めていくとしても、釘に触れるか触れないか、ほんのわずかなちがいで、球の行末を思うままに決められる技術もなく、軌道を予測することには意味もなく、パチンコとは、新幹線と牛車ほどもちがう。天地不仁とはこのことか。

巡礼は離れて、遠く逝き、遠く離れればまた還る。還りは往きとおなじ道は通らない。また往くときも前とおなじ道は行かない。これは全体から見下ろす確率論ではなく、一回の試みはいつも偶然。天気予報では30%でも、いま降っている雨は、100%の雨。どんなにまちがったり失敗しても、歴史は確率ではなく、過去はたしかにそこにあった。でも、いまは日常の闇があるばかり、他には何もない。

使う音がすくなくなれば、メロディーは無限に伸びてゆく。まばらで、微かで、おぼろげで、形がない音楽は尽きない。それでも、どこかにとげがある。

ジョン・グレイの政治哲学から老子に曲がり、西脇順三郎の草を摘みながら歩く詩と、サパティスタの問いかけながら歩く政治運動と、池をめぐる風景の変化、反遠近法、みんなむかし一度は思ったことでも、時を隔てて思い出すときにはちがっている。一つのものでなく、あるいは、一つのことからはじまるとしても、一は純粋の一ではなく、すべての色を含んだ一。二は対立する二ではなく、連続する線の両端、温度計の水銀柱の範囲、三は3つのものではなく、組み合わせ{1,2,3,12,13,23,123}の七でもなく、三角形は囲まれた平面のすべての点を含む。

夜明け近く、暗い空間に光の粒子が漂いはじめると、閉じていた眼がふと開く。バス通りの騒音と混じって、神経の高周波の持続音が聞こえる。身体はまだうごかず、考えだけがしばらく彷徨っている。そんな時に、むかしの記憶や読んだ本の一節が結びついて、ゆっくり回りだす。

行列を組んで高みにのぼり、領土を見下ろしていたむかしの天皇が、反対側からやってきた神の行列とにらみあい、先に名乗りを上げた神は負けて追い払われた神話、神の怨念を祭る山。雄同士の小競り合いと、縄張りを見まわり、マーキングを残し、高いところに上って雄叫びをあげる習性は、人間になっても変わらない。バリ島の司祭たちは、頭上に天以外をいただいてはならないので、橋やトンネルの下をくぐるわけにはいかない。回り道して山にのぼり、道なき道を反対側へと進む。山登りして、尾根を縦走し、降りる道で崖から転げ落ちるのは、背を向けた谷の女神の引力か。

構造主義の20世紀は、作曲家が全体を計画し、要素を配分しながら、地図の上で、それらの組み合わせやうごきを監視していた。目的地も出発点もなく、軌道がずれていく水の循環、谷の音楽は、弱く、柔らかい響きは、耳に残る。