掠れ書き23

高橋悠治

一瞬見えたような気がするものを捉える罠。そんなものが考えられるだろうか。考える、感じる、それだけで失われてしまうもの。影の痕跡。記憶でさえない。既視感か。まだないものの予感か。偶然にすぎないだろう。粒子が偶然ふれあって思いがけない方向にはじきとばされる。そこから生まれる結びつきのかりそめの安定を利用して足場をかためようとする虚しい試みがある。廃墟の上に都市を建て何層にも積み上がるトロイの丘のように。

受け入れて姿を変えながらしばらくのあいだ仮住まいしてまた漂い流れだす浮世と憂き世の狭間。草花のように風で受粉し風に種子をまかせる。地下で長い時間をすごし繭のなかの夢が外に現われ羽ばたく短い夏。循環する生きた流れは人間には保証されない。

偶然を認めることと隠れて生きる知恵はエピクロスのなかでべつなものではなかった。宮廷で亀卜に使われるより泥水のなかで生きるのを選ぶ莊子にも似たような知恵がある。村のなかでなく砂漠に出ていくのでもなく托鉢できる距離にいるブッダもそうかもしれない。人間はひとりでは生きていけない。いっしょにいては生きにくい。

矛盾があるから一つの論理ではやっていけないが感情や感性は他人には理解されないだろう。法則を理解すればそれを使うことができる。論理があればそれによって操られる。ことばで言えること、実例で示せること、音で共感させることには限界があり、その向こう側になにかがあるとしても、ことばや絵や音がなければわからないというわかりかたさえできない。

音楽についてあれこれ考えるて書いたり言ったりしても無視と誤解しか生まないばかりか、そのことばでしばられることになる。これでもなくあれでもないと言ってもそれがよいとは思えない。何かを考え言ったあとで起こるのは、じっさいにはそのようにいかないということだ。まるで考え言うことがそれから離れるきっかけになるかのようだ。

カフカの断片を読んだときに発見した自由間接話法。自分のことばではなく壁の向こうで聞こえる声の途切れ途切れる引用。たぶん聞きちがいかもしれない。
見ちがい言いちがいもある。おぼろげな記憶になってしまってたしかめようもないなにか。

ギリシャ悲劇では悪い知らせを伝える使者がいる。舞台で見せられる暴力はそれこそ虚構になってしまう。見せることをつつしむ。仏教の五戒は行うことの禁止ではなく行為から引き下がること。禁止することのできる絶対者をもたないから自発的に抑制するよりない。

対位法ではなく、多層性でもなく、亀裂、ちょっとした踏み外しとよろめき、入れ替わる声と移り変わる空間、即興のように書き続ける作曲、これでいいのだろうかと思いながら。初見のようにおぼつかない演奏。非日常についてロマン主義が信じていたこととは逆に、現実ははるかに身軽で、重く不器用な想像力をすりぬけていく。しかも繊細でわずかなずれや隙間から遠いところへ行ってしまう。

確実なものは嘘を隠している。確信は現実の世界からだけでなく自分からも隠れている。世界の中心にいて明日があるようにふるまっていても、状況は天候のように崩れ、想定外のことしか起こらない。それが時間、それが歴史か。

掠れ書き。飛白書。空白を含んだ過ぎ去る瞬間の記憶を書きとどめておく。誰のでもない声の時々きこえなくなるつぶやきは考えるときのように現実から離れて論理を追うのとはちがうが、それでも気がつくと考えにふけっている意識を身体にひきもどしながら、しかも逸れていくプロセスもそこに現れる徴を道標のように残しておく。迷路の脇道にいずれもどることもあるだろう。だれのために書いているのか。だれもいない内部空間を外から観察するのはだれだろう。ちがう風景が見えている。書いてしまえばそこから離れているのだから、こんどは外から見える曲がり角に移動してそこからきこえてくる声を待つ。

ことばは言ってから否定することができる。音は取り消せないから中断することと間をあけることしかできない。中断はちがう声、間は沈黙の空間。中断は対話のはじまりになるかもしれない。問に答えるのは対話にみせかけているかもしれないが答が先にあるから問が生まれる。すると問はひらかれていない。答の空間が問の限界を決めている。