掠れ書き29(時を刻む論理)

高橋悠治

手をうごかし、耳をはたらかせ、あるいは目で見わたして、不規則なリズムを作っていると、いつか規則性のパターンが現れている、これはいけない、と意識してパターンを崩し続けて、やっと不規則の側にとどまるそのとき、不規則と感じられるそのことに、どんな規則性の感覚がはたらいて、そこから意図して外れ続けることができるのか、と考えると、人間のからだが時を刻んでいることを思いだす。

平均して1分間に60からせいぜい80といわれる心拍と、16から20といわれる呼吸が続くかぎりで、心もはたらいているのだろうか、そう問われても、いつもは脈を感じたり、呼吸を意識しないで、それらがささえているはずの、複雑なからだの動きや、心というレベルにばかり囚われているのだろう、ということを反対側から考えれば、心拍や呼吸を意識しないでいられるあいだだけ、複雑で不規則な行為や、偶然落ちかかってくる感覚や認識に対応できるので、意識が心拍や呼吸に集中することを選べば、これはいわゆる瞑想状態で、瞑想の場合には意識がさまよいだすのをたえず引き戻す作業に気をとられて、瞑想が死の擬態であることは忘れがちになっていないだろうか。

ところで、死に近づいていく人の場合は、耳もとで呼びかけても、意識がないのか、あっても、応えるための筋肉が麻痺しているのか、死んでいくこと、生きているからだが持っているエネルギーや可能性をすべて使い尽くす作業にかかりきりでいるので応えたくないのか、ついにわからないままに終わる。瞑想がついにおよばない生と死の、それにもかかわらずと言うか、それゆえの、だれのからだにも起こっている現実が、外からの視線を拒否する、と言えないだろうか。意識はなくても、生きようとするからだの意志、と言うと意識のレベルで捉えられるかもしれないが、からだの動きは、意志で動かす随意筋の範囲を越えて、動きつづけていなければ死んでしまう、心拍や呼吸だけでなく、意識を通さない、意識に上らないが動き続けている、不随意筋といわれるものの運動があって、ここにいまある世界のなかに、ほんのしばらくのあいだでも存在していることはできるのだろうから、と言ってみたくもなる。

生命を維持している「しるし」とされている、心拍や呼吸の時間は、「刻む」とか「数える」とか言ってしまうけれど、じつは波打っているのだから、たとえば心臓の筋肉が血液を押し出す瞬間だけを感知して、波の頂点の間隔を計ったときの「刻む」という言い方から、時計のような機械の時間とつい比較することになるが、人工の時間ではない特徴の一つには「ゆらぎ」があることを思いだすと、時間のありかたがまったくちがう、しかし、その質のちがいを語るのも、「ゆらぎ」という現象があることでさえ、機械の時間のことばでしか言うことができない、それが人間のことばの限界のように見えるが、ことばはそういうものだったのか、いつからかそれが変わったのか、そんなことを思ってしまう。

心拍にくらべて呼吸は約4倍もおそいが、この二つの動きが相互作用していることはだれでもわかっているつもりでいるかもしれないが、息を吸うときに心拍は速くなり、息を吐くにつれて、ゆるやかになっていくようだ。それだけではなく、肺や腎臓のように血液を必要とし、また血液に必要とされる臓器が心拍のゆらぎにかかわっているらしい。肺のガス交換は約4秒、腎臓の血液濾過は約20秒、その中間に、脳に血液を送る頸動脈の関門が約10秒の波で心拍を撹乱する、撹乱の反作用も幾重にも折り重なって、撹乱の波は繊細になり、天秤のバランスがゆれている、と言ってみるけれど、これは計器上に見えている「ゆらぎ」の解釈で、乱れを意識したり、まして制御することはできないレベルの不規則性こそ、意識の前提となっていると考えられるのではないのか、ゆらいでいるから意識があるが、ゆらいでいると意識したら、意識されないことを前提にしている時間感覚が崩れてしまうかもしれない。そうなったら、いわゆる日常世界のみかけの確実性は根拠を喪って、夢のようにふわふわした感触しか残らず、哲学だ瞑想だ、などと冷静に言ってはいられない、ということになりかねない。

音楽は、いや、音楽も、人間の時間を機械の時間に置き換えようとして、17世紀からがんばっていた。フランス王の音楽家リュリは、重い杖で床を叩きながらオーケストラを一つのリズムにまとめようとしているとき、自分の足を突いて、足が腐って死んでしまった。国民国家の時代に、人間の集団を一つのリズムでまとめる必要は、足並み揃えて行進するナポレオン軍の兵士とともに、感染をひろげていった。ベートーヴェンは、メトロノームを使って、機械の拍でオーケストラの大音響を制御しようとしたのではないだろうか。工場の時間が社会の時間の基準になろうとしていた時代が、もうそこに来ていた、と言えるかもしれない。

一つのからだが、いくつかの波を統合せずに相互撹乱させて生きつづけ、生きつづけることを意識さえしているのとは反対に、たくさんのからだを束ねて、外側から一つのリズムで操る力にも、音楽は奉仕してきた。行進と突き出す腕、脚は自由に歩き回らない、手は曲線を描いて舞うことはない。打ち寄せる波の重なりを持続として感じるのではなく、頂点だけを均等な距離にはめ込んで、直線上に点在する時間を刻んでいると、この離散的な時間は、加速していけば圧縮されて痙攣し、減速すれば分離して、動きを停めるだろう。密度が乱高下し、突然発生する大きなエネルギーは自己破壊に向かうよりないように思われる。

撹乱しあう波の重なりの上に危ういバランスをとりながら、そのことを知らない、ほとんど静止しているかのような針が、じつは微かに不規則に震えているのが、安定したと言われる状態だとすれば、見かけの単純さこそが複雑の究極の姿であり、その見かけの下で、たえず崩れては新しいバランスに落ち着く内側の寄木細工の万華鏡的変換が、一段ずつ衰弱の梯子を降りていく、とそう見えることもありうる。さまざまなリズムの層のずれが同時進行しているあいだに、それぞれがわけもなく変化し、変化によって干渉しあって、それらの組織や構造が、突然のようにちがうものになっていたのに気づくまで、ここで制御していたようなつもりになっていた、というように、まかせていた流れに裏切られ、どこか遠くに運ばれていれば、それを受け入れる、とこのようにして、音楽を創るはずだった作業のなかで、作者も創られていくほかはない、というのもありうることだ。