掠れ書き31 ここ

高橋悠治

いまいる場所が「ここ」になる。「ここ」があるのは、「ここ」でない場所と区別するときだから、「ここ」を指す行為、あるいは「ここ」の意識は、分けた結果、あるいは分けた半分に光をあてるようなものだろう。「ここでない場所」があるから「ここ」があるとも言えるなら、行為や意識の裏側に「ここでない場所」が張り付いているはずだ。

ここはなぜ「ここ」なのか。「ここ」はここでなくてもよかったのではないか。ここが「ここ」である理由や根拠をあげることもできたかもしれないが、それらが後知恵でないと、どうして言えるだろう。あらかじめ全体の構図や目標があって「ここ」が選ばれたと納得できるのも、全体の地図が見えてからのことではないだろうか。それに、「あそこ」に行く道が一本しかないとしても、ではなぜ「あそこ」なのかということについて、おなじ疑問をもつこともできるだろう。

逆に、ここが「ここ」なのは偶然にすぎないとすれば、全体は閉じられたシステムになる。庭のように、そのどこにいて、どのように歩きまわってもいい。庭は平面ではなく、起伏があり、見る方向によって、風景は変る。世界が一つの庭だったとしても、おなじことが言えるだろう。その外側が内側からは考えられないとしても、庭や世界があるというだけで、それらには境界があり、境界があればその外側があるはずだ。外側に何もないとしても、「定義できない無」という外からの風が侵入して、内側に変化と崩壊や再生をもたらすのだと想像もできる。と言うのも、どんな世界にも、そこにない「もの」が考えられないとしても、「ないこと」、「ありえないこと」が考えられるとすれば、完全ではなく、不完全であれば、不安定であり、外から何かをもちこまなくても、内部の運動や構成要素の組み換えだけで、変化するにはじゅうぶんだと言える。

構成要素を将棋の駒のようにそろえ、それらをうごかす規則を作り、それからゲームがはじまるという順序ではなく、ゲームがあり、動きのルールが抽出されて何種類かの齣のかたちに圧縮され、それが動きにフィードバックされてゲームの「手」が洗練されるというように、手続きから見ていくと、有限数の要素のほとんど無限の組み合わせではなく、定跡をくつがえす別なゲームの可能性が生まれるのかもしれない。

閉じたシステムは循環する。循環は、かならずしも円のようにいつもおなじ軌道をめぐるだけではなく、おなじ場所に帰ってはちがう道に出るような、「ここ」が動かない一点ではなく、「この辺り」というようなひろがりのある不安定な場所で、その揺れ動く場所が別な軌道をひらくかもしれない「自己言及」と考えられるのではないだろうか。「自己言及」はただの反復ではなく、そのたびに変わり、編集され、その場で探りながら進む即興だが、揺らいでいれば思いがけない場所に逸れていくことがある。

「ここ」と「ここでない場所」を分けるなら、ここが「ここ」とするために「ここでない場所」に眼を走らせる動きがあり、それはうなずくような往復運動で、「ここ」が変化し、移動していくのにつれて方向や振れの大きさを変えていく。同時に「ここ」の範囲をたしかめる動きもあれば、それは小刻みな首振り運動になり、ずれていく中心を追って回転するだろう。往復と回転をともないながら、循環が以前通った地点を通過するとき、それは回旋運動になる。軸の傾き、方向、振動を含む揺らぎは、ダーウィンが観察した植物の葉や根の成長、また昼夜の変化、自転しながら公転する地球、庭をめぐる人の視点の変化にも起こるだろう。

おなじパターンが現れるたびにかたちを変えるが、それと認められるのは、音楽でも言えることだ。輪郭のゆがみとも言えるし、連続性と近さから見れば位相空間とも言える。

「ここ」は対象をさぐっている身体であるかもしれない。指が楽器に触れるとき、「ここ」は指の触れている表面にある。「ここ」に留まっていれば感触は消える。「ここ」を感じ続けるためには、指を動かしていなければならないだろう。「ここ」を感じ取る指の運動には、往復とズレがあり、感触範囲はひろがって、触覚空間のようなものが現れる。「ここ」は一点ではなく、さまざまな運動のパターンを作りながら維持しているようだが、運動の中心も一時的な支点にすぎず、どうしようもなく、おたがいに共振する部分はあっても、自然にいくつかの点で枝分かれして崩れていく。

「ここ」は楽器に触れている指先なのか、それとも楽器の響きにまで延長されて、音の変化する触手で空間をさぐっているのか。その響きが返って来て楽器を操る身体を浸し、身体の周りを繭のように包む、その空間が「ここ」なのか。

音楽が続いているあいだ、「ここ」は先端でもあり、境界の向こうの空間の感触でもあり、響きが還ってきてひろがる音の霧かもしれないが、それらすべてが身体の動きを確かめるスクリーンにすぎないとも言える。身体の固有感覚をことさらに意識しないでも、運動感覚を失わないでいなければ、瞬間ごとの発見に対応して方向を変え、動きの質や大きさを調整できないかもしれない。