めぐりながらそれる

高橋悠治

手が動きだす。それから音になる。動きを試したり、範囲を調べたりしていると、動きの跡が形の小さなまとまりになってすぎていく。形を手がかりに動きの手触りを思い出すと、時間はそこにもどってから、ちがう線を描いて出ていくだろう。経験は語りの記憶となって、意識しないでも身体に刻まれているようだ。一つの身体の記憶だけでなく、文化史の全体がそのなかに隠れているのかもしれない。

時間がめぐり、空間がそれていくのを、即興や演奏する時だけでなく、作曲する時に気がつくことがある。ゆれながらどこかへ向かう感じがつづく限り、行く手は見えないままに音楽が続く。内側から外に向かう表現ではなく、まわりの空間からやってきて、身体を通り抜けていく。

響きをたしかめながらすすむ。これでなければならないとは言えないが、ちがう音を選ぶ根拠がどこにあるだろう、それでも音から音へ歩みつづけなければ、音楽は停まってしまう。手の動きと言ってしまうが、手は揺らいでいる。揺らぎが大きくなると動いているように見えるのか、動いていると思うから方向があり、目標があるように見えるのか。手はためらいながら、時にはやりなおして、ゆっくり進んでいく。

動きがまずあり、そこから形が生まれ記憶されるなら、やってみるまでわからないことがあり、済んでも意味がわからないままでいるのがあたりまえなのかもしれない。楽譜、作品、録音で確認できる音の形は、創造する行為が終わったあとに残されたものだから、分析することはできる。形になったものから、それらを創りだした手の動きにさかのぼるのはむつかしい、いや、ほとんどできないと言ってもいいだろう。

結果の分析から知ることができないのは、過ぎていった創造のプロセスだが、分析結果のように、どの細部も整列し、ぴったり嵌めこまれた図形ではなく、失敗の連続かと思うほど、意識する前にすでに進んでしまった、アフォーダンス理論でマイクロスリップと呼ぶ誤作動が、動きをたえず修正しながら、連続したなめらかな、幅のある線にする。ためらい、よろめき、乱れて、しめつけてくる時間の制約や、狭く研ぎ澄まされてくる空間の圧力に反抗し振り払いながら、場所を空け、時間を引き伸ばし、呼吸しやすく動きやすい領域を確保する、これが創造のプロセスかもしれない。形になって残される結果から価値を判断するのではなく、動きがますます自由になり、速くも遅くもなり、強くも弱くもなり、大きく直線に見える一歩が、細かく見るといくつもの通過点に分かれて、いつどこででも中断し、方向を変え、後退することもある、拡大された手描きか、海岸線のフラクタルのように、ひだや折り目のついた線に見えてくるなら、音楽は無用のあそびになると同時に、世界をその響きから調べる小さなハンマーにもなるのだろうか。

創造と分析はちがうと言ってしまえばそれまでだが、ひとつの動きを動く前と後では見る角度がちがうからというだけでなく、動く前には形は見えていないし、動いた後では形は残っても動きはもうないから、どちらにしても何も見えていないと言いたくもなるだろう。創造と分析は音楽のはじまる前と後の両端にあって、それらが鎖の環のようにつながっているならば、音楽家の活動も、ひとつの演奏が次の演奏になり、ひとつの曲から次の曲が生まれ、はてしない即興のように続いていくかもしれないが、近代はそんなにお気楽なことでは済まされなくなった。世界も変わり、人々の好みも変わる。宮廷に雇われたり、パトロンを持つ安定した身分ではなければ、ひとつの技術を磨き上げるのでなく、さまざまな場合にその場で対応しながら、多種多様な音楽を売って生活するしかない。

音楽がいくつかの音の形を連ねたり重ねたりしてできているなら、似た形もあれば、異なる形もあり、似ていてもどこかがちがい、異なっていてもどこかで折り合いがつけられる。そう考えると、音楽は、計画通り構成し配分して、全体が安定して閉じているものではなく、偶然から生まれ、危うく立っている仮小屋、寄せ集めの隙間だらけの吹きさらしの空間、そこにある音が、ない音の影になる。聞いているのは聞こえている音ではないかもしれない。それらをつないでいる聞こえない線を想像力が創りだし、その線に沿って、ずれたり、歪んでいる音の記憶を音楽と呼んでいるのだろうか。