だれどこ8

高橋悠治

●吉田秀和(1914-2012)

シューマンの評論集『音楽と音楽家』の訳者としてこの名を知った。まだ小学生だったと思う。ピアノを練習はしないで、当時新しかった音楽の楽譜を弾いてみたり、父の書棚の本で聞いたことのない音楽について読んでイメージのなかでそれらしい音を聞いていた。ロースラヴェッツ、ハウアー、ケージさえも数十年後に知った本当の響きよりすばらしかった。ヴァレーズの楽譜を見つけられないで、輸入楽譜の店主に頼んで作曲者に問い合わせてもらったこともあった。「わたしの音楽はもう演奏されないし、楽譜も出ていない」という返事が来た。1950年頃だろうか。その後演奏され新作も委嘱され楽譜も出版されるようになったが、もう年をとりすぎていた。作曲家も演奏家も旅をしてやっと生活ができるのは、いまも変わらない。少数の人にしか受け入れられず、その人たちと出会うためにはうごかなければならない。うごいていれば、いままでとちがうことも見えてくる。旅や巡礼は昔は職人や修行者には欠かせない年月だった。いまでも電子図書館だけではわからないことがある。

シューマンの批評は当時の音楽制度に反抗してまだない音楽を夢見ることばだった。ショパンの初期の作品をききながらE・T・A・ホフマン風幻想のなかで千の眼、孔雀の眼、バジリスクの眼に見つめられていると感じる文章を読んでその曲を聞いてみても音楽のどこにそんなふしぎがあったのかわからない。ブラームスを紹介した時もそうだった。批評された作曲家自身にも見えなかった可能性を感じさせ未来をつくりだす批評もあれば、サルトルが書いたジュネのように作家を定義してそれ以上書けなくする批評のことばも稀にある。吉田秀和の翻訳は批評家として出発する時のしごとではなかっただろうか。

桐朋学園に途中から入り中途退学したときも、吉田秀和は主任で、音楽史を教えていた。『新しさを追い求める時代は終わった、これからは編集と引用のモンタージュしかない」というような文章を小論文の課題で書いたのをおぼえている。T・S・エリオットの『荒地』やエイゼンシュタイン、マヤコフスキーを読んでいたからだろう。ヴァレーズのレコードを聞かせてもらいに休日に家まで行ったこともあった。2級上の作曲科の学生だった鍋島元子といっしょだった。

雑誌に連載された吉田秀和のヨーロッパ紀行では、1954年のケージとテュードアのヨーロッパ・デビューやハウアーの「退屈そのもの」のピアノ曲だけのコンサートのことも書いていた。その後20世紀音楽研究所を作ったりしたが、60年代からだんだん興味が演奏のほうに移って来たように見える。音楽時評にもヨーロッパの演奏家のことでなければ、相撲か西洋美術のことを書いていた。

『吉田秀和全集』のなかの一巻に解説を書いた。他人の考えを理解することはできない。離れたところから見て、それとはちがうことを考えて書く。それが批判で、批評かもしれないが評論とはどこかちがうニュアンスがある。批判は継承でもあり伝統でもありうるが、分析や評論は伝統にはならないだろう。付け、あしらい、転じ、それが伝統の運動。

批評家や学者・研究者は作られたものからはじめる。デカルトは暖炉の傍のソファーで夢を見る。論理も感覚もことばにして、細部を追ううちに時間の迷路に入りこむ。ことばの上で対象の全体を表現することが仮にできたとしても、それが何になるだろう。音は音の記憶でしかない。残像や軌跡、廃墟、ここから立ち去った影にどうして追いつけるだろう。作曲家や演奏家にはまだないものが聞こえることもある。蜃気楼にすぎなくても「まだ意識されないもの、近づいてくる別な世界」とエルンスト・ブロッホが言う。

そこにない音楽が批評のことばから起き上がることだってないとは言えない。印象や記憶や感触ではない、立ち去ったものを追う道ではない、その瞬間にうごいていたことに気づく交差する軌道に移ってどこへともなく運ばれていく。

鎌倉で会うこともあった。バルバラがいた頃、それからまたずっと後になって、たった一度だけ行ってみた桐朋学園同窓会がきっかけで再会し、実家に行く折に訪ねて1時間ほど話をする。その時は思うままに、決して書かないような批判も口にしていたから、慎重にことばを選んで書いていたことはよくわかる。年をとれば新しいことに対応するのがむつかしくなるだけではなく、望まなくても権威とみなされる。そうなれば結果を考えずに思ったことを言うことができなくなるだろう。それでも言いたいことがあればわかる人には伝わるような多層的表現をとって、白井晟一の建築の入口のように透明な壁があり、向うが見えると思っても曲がり込まないと入れない。

ある日は書いたばかりの文章、シューベルトの「菩提樹」とトーマス・マンの『魔の山』の最後の部分について、ヨーロッパ文明が滅びていく戦場で戦友の手を踏みつけながら起き上がりまた倒れるハンス・カストルプに聞こえるなつかしい樹のざわめき、ここへ帰っておいで、と呼ぶ声、また戦時中の高校の軍事教練の記憶を織り込みながら書いた「永遠の故郷」の一章について話してくれた。『魔の山』はこどものころ読んだ本で、希薄な空気のなかでの啓蒙主義者セッテンブリーニと改宗ユダヤ人ナフタのせめぎあいを熱病の夢のように読みふけったことを思い出す。

作品展をやってやろうと言われ、水戸芸術館で「高橋悠治の肖像」というコンサートが企画される。2009年のことで、作曲やピアノ演奏が批評された記憶もないし、認められているとは思ったこともないので意外な気がした。鎌倉から時間をかけてそのコンサートにも来てくれたのも意外だった。1960年代からその時までのさまざまな方向にちらばった作品を集めても、その後は見えない。使えるような材料の蓄積はなく、そのたびに別な失敗をかさねる。時々はこれでよかったと思える時もあるが、永くはつづかないし、次の作品には何の役にも立たない。

「もう書くことしか残っていない」と言いながら書きつづけた人がこうしたかたちで自分の出発点に回帰するのを離れた位置からながめながら、記憶のなかで熟成したものが世界と向きあう姿勢として表現されるという、このいきかたではなく、迷路の曲がり角で突然射しこむ光、記憶に立ち戻りながらそこから絶えず逃れる小道がないかをさがしつづけている、というほうがこちらのいきかたかもしれない。世界は暗い。それでもなにかうごめくものがある。希望と言えるようなものではなく、日々の暮らしのなかで思いがけず垣間見るなにか、言うに言われないもの。