クセナキ スの演奏から

高橋悠治

(これは近刊予定の Performing Xenakis, Pendragon Press, 2010 に書いた文章から思いついたこと)

逆年代順に言うと  Kyania(1990) を指揮したのが1992年だった 極端におそいテンポで密集した音の壁の向こう側にある光の予感 ピッチもリズムもない色をオーケストラの楽器で表現するパラドックス 絡み合った線や響きが空間を埋めて 空間も時間もない持続をつくろうとする エレクトロニクスやコンピュータではどうしても均質になってしまうが 異質な生の楽器音を重ねていくと 息づくような音の密林が生まれる しかもその響きはそれを聴くためにではなく その隙間からわずかに漏れてくる彼方の光(それが濃い青の領域というタイトルの示唆するものなのか ギリシャ語の kyanos はヒッタイト語源らしい ラピスラズリも意味するようだ)を感じるために置かれたハードルだという感じ カフカの「城」で 電話からきこえる城のなかのざわめきのように そこにあるのはわかっていても 辿り着くことはできない場所を 間接に描き出すためのメカニズム

おなじコンサートで演奏したマセダの Distemperament は調律された楽器をつかって 音律から逃れるための音のスクリーンだった アジア熱帯の密林の音 あるいはちがう村でそれぞれに調律されたガムランが風に運ばれて空で出会うような音楽 マセダはヨーロッパやアメリカでまなんだピアニストだったが フィリピンに帰ってルソン島の山腹に天から降りて来るような棚田を見たときに それまでのヨーロッパ音楽とこの風景とのちがいに目覚めて音楽学者になった オーケストラもそれぞれの楽器が ちがうタイミングと装飾で一つのフレーズを受け渡しながら織り上げる布のようだった

1970年代に演奏していたクセナキスのピアノとオーケストラのための Synaphai (1969) ピアノソロの Evryali (1973) には メドゥーサの髪にたとえられる一つの図形 枝分かれし成長していく木の見えない生命力の不気味さがある メロディーを一本の曲線としてではなく 断層の連結(これが synaphai の意味)とみなす 連続する音をわずかに切り タッチを変えて 線の一部ではなく 同時に織り合わせたたくさんの面の切り口として透視するならば 荒れた海を鎮める魔力(everyali の語義)に近づく

それ以前の Herma (1961) と Eonta (1964) では 密度を変えながら進行する二つ以上の面の出会いが 全域にばらまかれた音のあいだから一瞬見えるかたちを追っていく 疲れて手をうごかせなくなっても 意識的なコントロールを離れてまだつづく手の運動が 二種類の尺度(5連音と6連音)の網にかかった音を 耳が想像する音のかたちに仕立てては崩していく記譜のためのリズムの二重の格子がかたちを歪めるとしても 確率分布によって配置された音自体も すでに一つのシミュラークルなのだから その再現や 細部の精確さではなく 耳はそこにない彼方のものを聴いている

こうして書いていると それも一つの感じかたにすぎないと思えてくる クセナキスの作品を解釈するのか それともクセナキスを通して見たと思ったものを書いているのか

エレクトロニクスやコンピュータの不器用さと生真面目な能力にあきたらず 人間の集団である大オーケストラにもどると 今度はその心理学や組織につまずくし 権力や娯楽の社会的な機能に組み込まれ それら全部が経済に還元されてしまうようにも思える

一本の旋律が 情緒を運ぶ舟にならず 織り込まれた地層透視に展開できるなら 大オーケストラ機構を使わなくても 一人からはじまって増殖する音楽の感染力 わずかな音の多面性を考えてみようか