グレン・グールドふたたび

高橋悠治

NHKテレビ番組『グレン・グールド 鍵盤のエクスタシー』に出てグレン・グールドのヒンデミット/シェーンベルク風ピアノ小品を弾き あらためてグールドのDVDの映像を見て思ったこと二三

高い枝から実をもぎ取るサルのような 極端に低い椅子に座って鍵盤から指で音を掻き取るようなあのしぐさは 最少限の力で音の(ピアノの場合)強度と時間的ずれの微妙な調整 それによる音色(ねいろ)の幻覚を生む 合理的な方法であるはずなのに なぜ あんなにぎくしゃくしてしまうのか 最初の一音の前の身構えが 強調する音の持続が 頸椎をふるわせ 肩甲骨をかたくする のばした指はバネのように鍵盤から飛び退き テニスのラケットのように音をはじきだす 肘からさきだけがうごいている 顔を鍵盤に近づけ 他のものが意識に入らないように 指のうごきだけを見て 口はリズムをとりながら 憑かれたようにさきを急ぐ

再録音した『ゴルトベルク変奏曲』のアリアの遅さ ほとんど停止して次の音が予測できないほどの それでもあたりに漂う沈黙を押しのけて気力だけで 次の音に辿り着くように見える 自転車が倒れないようにできるだけ遅く漕ぐことに必要な技術と似たものがはたらいている ここでは あらかじめ決められた構成や 全体の予想からはずれて 一瞬ごとに生まれては消える音と沈黙のバランスが揺れている

それでも第1変奏に入ると それは錯覚にすぎなかった 全曲のテンポ配分が比率で決められていて それに従うなかで あの異常な遅さと感じられるテンポが現れただけ 1956年の最初の録音の「30のばらばらな小曲」を自己批判して 計算されたテンポ変換で全体を統一しようという意志の厳密な実行結果にすぎなかった グールドはそれを算術的対応と呼ぶが それは1950年代にエリオット・カーターの発明したテンポ変換法とおなじもの

グールドはやはり1950年代に自己形成し そこから一生逃れられなかったのだろう スタッカートで分離された均質な音と 極端に速いか極端に遅いテンポの対照 数学的と言うよりは数字的な精密な細部決定の徹底 それらは同時代アメリカの音列技法による音楽 ディジタルなコンピュータ・アートに向かう制御の思想とおなじ根から生まれた それでも音符を書いたり 電子音響を合成することは 時間をかければできる 演奏現場から遠ざかり 録音に特定した作業と言っても 楽器の演奏は身体なしではできないし 身体の制御は機械とおなじではないから このような原則を身体に強いれば そこから複雑な心身問題が起こるだろう

グールドの全身は呪縛されたように 肘からさきの手とそれを見つめる近視の眼に集中し 上半身は音楽の歩みに誘われて おそらく意識することもなく時計回りにゆるやかに回転している 演奏している音楽だけが世界であり その他のものから切り離されて そのなかにどこまでも没入することはできるけれど それはしょせん そうしている間だけそこに浮かんでいる時間の泡にすぎない その幻覚を演奏中全力で維持していくことと それ以外の毎日の輝きのない時間をすごさなければならない現実との落差は 身体にとって 鈍く重く 耐えられないほどゆっくり締め付けてくる打撃であるだろう
音楽のように特化したものをたよりに 統一原理をもとめることは 現実の分断とそれによる身体の破壊を招きかねない 一つの身体の上で心臓と脳が争っている どちらか弱いほうが破れるまで