手は型を崩しながら動く

高橋悠治

楽器に触れる手が動いて響きの跡を残す 手が空中に描く線がすぎていくだけでなく その痕跡が響きの形として区切られるほどの長さになれば 音のかたまりがまずあって 時の経つにつれて変化していくようにも感じられるだろう 偶然に触れた位置や空間が記憶に残るのは 動きの痕跡が身体の上に動きや方向として あるいは感触としてしばらくは感じられるからかもしれない  

眼がさめてからしばらくじっとしていると 外の音が聞こえる それとは別に 輪郭の定まらない音のイメージになって身体の上を行ったり来たりしている 動きがしずまって 形が一瞬見えるときがあれば それを記憶にとどめようとはするものの しばらく後で書いておこうと思っても もう形が薄れている 

三味線を習っていた頃 『旋律型研究』(町田佳声)や『大薩摩四十八手』を研究したことがあった 17世紀のバロック音楽でもmusica poeticaといわれた音の絵(figura)があった テクストの内容を音の動きで伝える型あるいは手があるから 音楽は聴き手とあまり離れないところにあったのだろう

音楽が個性的表現や 抽象構成とみなされるようになると 音型のレトリックは表面から消えていった それでも意味が感じられる音の動きには 型や手に似たものがある 文化や歴史に裏打ちされた音のパターンが共感を呼ぶのかもしれない

20世紀後半の音楽の最先端は1950年代の音列技法の全面化から1960年代にミニマリズムに移った 知的で複雑な抽象構造は 単純なパターンを反復しながら すこしずつ細部変化をつみかさねるスタイルに変わった そこで作曲は 全体像と素材になる音響の組合せのあいだを理論やシステムをたよりに往復する知的作業ではなく 最初に決めたパターンを反復しながら細部を取り替えていくコントロールの持続力に力点が移る 反復できるようなパターンは 伝統的な型と似ている部分があったとしても 具体的な身体運動や象徴的な意味を打ち消すような動きをそこに付け加えて 持続し蓄積する以外の方向や特徴をもたないように処理した抽象図形が好ましいと言ってもよい

作品からプロセスへの変化は あまり時間をおかないうちに ミニマリズムのエネルギーを使いつくしてしまった ミニマリズムのパターン反復は アフリカや東南アジアの伝統音楽のように 即興を含む参加のプロセスではない 地域社会の生活のなかの役割を 芸能を通じて確認するものでもない 手や音の動きを数量で置き換える省略法を使って 旧植民地文化から採ったパターンを囲い込み 音楽市場に個人様式として流通させると パターンのなかに潜む可能性をじゅうぶんに発展させる前にトレンドとして消費してしまう という事情もあったのではないか

定石のパターンから文化的・歴史的意味を剥ぎとって抽象化するのではなく バロック期や江戸時代の音楽のレトリックを参照しても 当時使われたパターンではなく いま身体運動的イメージ図式として使えるようなパターンを即興で作り その音の動きを分析して構造を割り出し 組み合わせた構成を考えるのではなく 別なパターンと出会うたびに次の一歩を踏み外し そこから予測しなかった動きが生まれるのを見逃さないようにして 続けていく それが作曲・演奏・即興と分かれている音楽創造の作業を一つにする 音楽家のしごとの日々の あるすごしかたでもあるだろう

手は経験をつむと 踏み外すこともできるようになる 動けばそこにある形は崩れるが 形が崩れると それにしばられず動けるようになり それとともに形の痕跡は 色褪せながら予想外の余韻を残していくのかもしれない