製本かい摘みましては(187)

四釜裕子

4月末、今年も近所の公園のナンジャモンジャが白く細い花びらをもりもりつけた。区立の小さな御徒町公園という公園だが、その一部がちょっとした庭園風になっていたりミニ八幡神社があったり藤棚をはじめ草花の種類も多く手入れが行き届いているのは、元伊予国大洲藩主・加藤泰秋子爵の屋敷の一部であった名残りだろう。八幡神社の鳥居の横には八幡神社の文字が彫られた古い標柱があり、その側面には小さく「史蹟 旧加藤邸久森山跡」と彫り加えられている。このあたりは極めて平らだから、広い庭の一角に土を盛ったりしていたのだろうか。ナンジャモンジャにはこんな説明板がある。〈この木は、俗に「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれ、朝鮮・中国にも分布していますが、日本では本州木曽川流域と九州(対馬)のみで知られている珍しい木です。昔、青山練兵場にあった大木よりふやして、台東四丁目の荒沢鍈治郎氏が大事に育てたものです。(略)珍木であるため異称が多く、ロクドウボク(六道木)・アンニャモンニャ・フタバノキ・ナタオラシなどとも呼ばれています。  ヒトツバタゴ Chionanthus retusus  モクセイ科 ヒトツバタゴ属 【落葉高木】 台東区〉。

荒沢鍈治郎さんとはどんな方だったんだろう。ネットで検索したらイコモス国内委員会が明治神宮あてに出した「神宮外苑を象徴するヒトツバタゴ大径木の現地保存のお願い」(2023.11.21)がヒットした。”外苑を代表する元天然記念物である「ヒトツバタゴ」(通称ナンジャモンジャ)を事例とした環境影響評価において完全に欠落している歴史的樹木の検討”が示されていて、この中で、文言は台東区の説明の域を出ていないが荒沢さんと御徒町公園にも触れていた。それによると、ヒトツバタゴは江戸時代から外苑にあり、明治18年に青山に練兵場を作る頃にはそれがなぜか予定地近くの萩原三之助邸にあり、整備するにあたって買い上げられた。大正13年に天然記念物に指定されたが昭和8年に枯死。実生では増やせなかったが根接という方法で〈小石川植物園、その他、2、3の所に分根〉して命は繋がり、このたび〈小石川植物園、東京大学資源活用推進部、日本植物友の会の木川発夫様のご協力をえて〉調査したところ、そのうちの1つは、荒沢さんが育てて昭和6年に関東大震災の復興小公園として整備された御徒町公園に植えられたものだと〈推察される〉。公園で見るかぎり植物をうまく育てる荒沢さんという方がいたんだなと思うばかりだったけれど、何か奇妙な温度差を感じる。

現在の御徒町公園一帯は関東大震災でみな焼けている。震災後、加藤子爵邸の敷地には内務省復興局東京第三出張所が置かれていた。公園にはこの界隈(東京第31地区)の復興区画整理完成記念碑があり、背面に整理委員の名前が記されているのは見ていたので、もしかしてと思い改めて見に行ったがそこに荒沢さんの名前はなかった。なんとなく、なんの根拠もないのだけれど――荒沢さんは子爵のお屋敷のお抱えの植木屋だったのではないだろうか。外苑にあったヒトツバタゴ1世の子の一人は何かの縁で加藤子爵邸に引き取られて育てられていたが、震災で焼け出され、近くに住んでいたお抱え庭師の荒木さんがそれを救い出し、屋敷再建の折にはまたお庭にと慈しんで育てたが帝都復興計画によって叶わず、主人にそのことを話すと「今までよく尽くしてくれた。この木は好きなようになさい」と言われ、屋敷跡が公園になると決まると知ると、恩義に報いようというような、その地へ花をたむけようというような、そんな思いで一市民として提供した――。荒沢さん、すみません、勝手に妄想して。

こういうときは『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和』(下町風俗資料館 平成11)だ。膨大な聞き書きを集めたこのシリーズは、ほしい情報がありやなしやのときには頭から読まないと見逃すので大変なのだが、「植木屋の荒沢さんが……」とか「ナンジャモンジャの木が……」とか何とかしゃべっている人がいないかしらと探したが見つからなかった。代わりに「伊豫の殿様」と料亭「伊豫紋」の話が目に入った。〈加藤様が江戸へいらっしゃる時にそれに付いて来て、きっと料理番だったんでしょう、あるいは家来だったか、その人がもんさんっていうんで、それで、伊豫のもん、伊豫紋という名前でやりましてね。(略)横山大観が非常に伊豫紋を愛好したそうですね〉。料理場は御影石が敷いてあり、しょっちゅう水が流してあって清潔だったそうである。森鴎外の『雁』や森茉莉のエッセイにも出てくるし、ここの庭は広かったと他で読んだ記憶もある。伊豫の殿様お抱えの植木屋は必ずやいただろうし、働く人を大事にするようすも感じられるし、落語の「青菜」よろしく荒沢さんが水撒きしていても全然おかしくないんだよなぁ。

などと思っていたらば、ASA上野御徒町発行の「あさネット」197号(2024.5.7)にここのナンジャモンジャが出てきた。月いちで新聞に挟み込まれてくるB4サイズ2C両面刷りのASA新聞で、チケットプレゼントのお知らせと所長さんによる地元ネタ中心の読み物が楽しいのだ。コロナでしばらく中断して、再開したときはうれしかった。やはり4月の末に同じ公園でナンジャモンジャを見たようで、牧野富太郎のエッセイを紹介したあと、〈ドラマの通り、植物採取のためなら何でもやってしまう人だったようです〉と締めていた。なにしろ明治の中頃、〈人力車夫を傭って〉夜中に青山練兵場に忍び込み、ナンジャモンジャの花を採集するために〈人力車夫に頼んで木に登らせ、その花枝を折らせた。夜中で、人が見ていなかったから自由に採集できたが、昼間ではとてもできない芸当だった。それに、その頃は練兵場も荒れていたので、自由に行動できた〉(「ナンジャモンジャの真物と偽物」より)というのだから所長さんが呆れるのも当然だ。ちなみに牧野は花の様子をこんなふうに書いている。〈白紙を細かく剪ったような白い花が枝に満ちて咲く〉。こちらは納得。

牧野をモデルにした昨年の朝ドラ「らんまん」はおもしろく見た。各地の植物愛好家とのやりとりは実際どんなものだったのか、それを裏付けるような話が昨年はたくさん出ていたと思う。木曽川流れる岐阜県恵那市はヒトツバタゴの自生地の1つで、市が大正11年6月の牧野の手紙を保管していたのもニュースで知った。同市の後藤治郎さんが送った標本に対する返事で、それはヒトツバタゴではないかと書いてあったそうだ。その後きっと現地を訪ねたのだろうし、翌年、地域のヒトツバタゴが天然記念物に指定されたのは牧野の影響があるのでは、という記事だった。実は加藤泰秋子爵(1846-1926)と牧野富太郎(1862-1957)にも接点があった。これも昨年そういう流れで何かで聞いたのだと思うが、その”加藤子爵”が御徒町公園の”加藤子爵”だとはそのとき気づいていなかった。北海道の洞爺湖周辺の開拓事業も手がけていた子爵は山草研究家でもあり利尻山への採集に牧野が同行したそうだ。さらに、岩手の早池峰山で見つかった新種に牧野が付けたカトウハコベの名は加藤子爵に由来するというのは定説のようだが、解釈はいろいろあるようだ。即席ながら御徒町公園派から言わせてもらうなら、子爵が望んだことでも、こびてつけられたものでもないだろう。

御徒町公園の説明にあったヒトツバタゴのもう1つの自生地、対馬については、帚木蓬生さんの『襲来』で読んだのが忘れられない。日蓮の蒙古襲来の予言を確かめるべく対馬に遣わされた見助が、地元の娘・なみを見送りながら隠れ家を探すシーンだ。〈春になると対馬は、ひとつばたごが咲き誇り、船からみると島全体が雪に覆われたように白一色になる〉。〈山道にも岩の上にも、ひとつばたごの小さな花びらが白く散り敷いていた〉。場所を決め、屋根をかけて岩などを積み、ヒトツバタゴの幼木を割れ目に植え込んで、生長すれば目隠しになるだろうと段取りしてその場を離れる。ここでなみと再会することを密かに夢見るも叶うことはなく、その地はまもなく真逆の色に染まった。博多湾に築いた”防塁”のおぞましさよ。

牧野富太郎つながりで最後にもう1つ、岡本東洋撮著『花鳥写真図鑑』第六集(非売品 昭和5 平凡社 装幀:辻永)のことを少々。全何巻かも知らずに1冊だけ買っていたものだが、牧野が植物の解説をしている。この本、表紙の芯が硬くて重くて、丸背ハードカバーで天金で見返しの刷りも金で函入りで豪華なのに、かがりが3穴のブッコ抜き(打ち抜き綴じ)なのだ。岡本東洋は竹内栖鳳や横山大観などに請われて絵画資料としての写真も多く撮っていたそうで、同じく岡本による『東洋花鳥写真集』全75集(芸艸堂 昭和8)は〈全75集、計1500点の写真が掲載された大部のもので、画家が使用しやすいように製本せずに、印刷した写真を封筒に入れて刊行するという工夫も凝らされ〉たそうだ(「うみもりブログ」竹内栖鳳×岡本東洋 日本画と写真の出会い4 2020.7.17)。ならばこの本も、必要なページを簡単にばらせるようにとのはからいということになろうか。写真、特に動物の写真がものすごく柔らかくていいんだけれども、なにしろかがり糸が切れているし表紙もボロボロだし重たいからいい加減処分しようと見るたびに思うのだが、かがりと装幀のあまりのアンバランスがおかしくて今夜もまた棚に戻してしまいました。