製本アーティスト、山崎曜さんの作品展「みなも・あわい・うた」には、色とりどりのバインダーのようなものが並んでいた。2枚の薄いアクリル板のあいだにさまざまなものがはさんであって、板の四辺に空けた細かい穴を糸で縫い合わせたものを表紙とし、背にあたる部分を革でつないである。OHPフィルムに焼いた写真、木の葉や脱脂綿、羽根、金網、グラシン紙、寒冷紗や糸等々が層をなしてとじ込めてある。手にとって開け閉めしたり灯りにすかして見ていると、どこか森に誘われて、湖面に映る景色の揺らぎに足元がおぼつかなくなったり底なし沼に驚いたり。
一連の作品は「サンドイッチホルダ」と名付けられ、内側に貼った革に切れ目が入れてあり、ノートや手帳をはさんでカバーとして使うことができるようになっている。一つ一つの作品がどんなきっかけでどんな素材で作られたのか、そのなりたちを書いた長めの文章も添えてある。作り手の愉快と覚悟の息を土管の向こうから真っ正面に受ける味わいがあって、解説というより物語であった。「サンドイッチホルダ」は使い手それぞれのノートをはさむものとして提示されたけれども、すでに一つ一つが作り手による物語をホルダしていて、その意味では完結しているのではないかと思った。革の切れ目がただひと筋のこされたためらい傷のようにすら見えてくる。
曜さんはアトリエでの教室や大学などでの講義のほかに、カッターや刷毛の使い方や糊の作り方など、基本的な技術に限って教える講習も行っているそうだ。会場でカッターの使い方をちょっと聞いただけで、私も習いたいと言ってしまった。どうすればうまく使えるかと聞かれたときに、「余計な力を入れないこと。あとは、なれることですね」と最後を締めくくる自分の曖昧さにさすがにうんざりしていたからだ。いつまでたってもなれない自分がいる。このままでは、なれる前に必ず死ぬ。力を入れたくないのに入っちゃうから余計なのであり、皆それに困っている。私も。
「人差し指を、カッターの上ではなく右脇に添えるといいです」と言われる。多くの人(私もそう)はカッターを鉛筆を握るように持つけれども、これでは刃先を紙に押しつけることになる。すると「切ってやる」という意識が高まって余計な力が入りやすくなるというのだ。カッターの右脇に添えれば、「上から力を入れることができなくなるから、余計な力を入れることなく、手、全体でカッターが使える」。なるほど……。かたいボール紙などは切り筋を入れたらあとはフリーハンドで切ってしまうそうだ。「手や腕を動かすのではなく、身体全体を後ろへ引くようにする」。会場で “エア・ボール紙切り” をしていただくと、一瞬にして場の気が変わった。腰のすえ方、身のこなし、手つき目つき、”修行僧” みたいだった。“製本エクササイズ”と思った。これらは曜さんの『手で作る本』にも詳しくあるのだけれど、どうも私には器用な方々が駆使する技のひとつに見えてしまって、試したことがなかったのだった。目の前で見るのはやはり圧倒的だ。
曜さんの身のこなしには理由があるだろう。ご自身のブログによると「構造動作トレーニング 骨盤おこし」なるものを体得されていて、始めたきっかけは〈本の背への箔押しの「だましだまし」な感じの改善〉だという。箔押しと骨盤おこしの動きは〈つながるものがある〉のだそうだ。曜さんはさらに、ルリユール工程の花ぎれ編みが苦手で筋肉痛になっていたのも、ご自身の身体に聞いて解決している。花ぎれ編みは絹糸で本の背の天地に編みつけるごく細やかなものだから、筋肉痛になるほうがむずかしいと言っていい。力なんていらないのに力んでしまうのは、苦手だから力が入ってしまうのでも、なれていないからでもなく、〈右手で糸を引くのが強すぎて、対抗して左手でも引きすぎ〉ていたためと分析するのだ。曜さんの身体と曜さんの頭のおしゃべりを、曜さんが仲立ちしている。
展示会場には木製のモビールもいくつかあった。使われていたのは曜さんのアトリエにある木製定規を細かく切ったものだ。わずかな風を受けて揺れ、やわらかい音をたてている。改めて、今回の展示の口上を読む。〈僕という動物体が見つけて集めてくるものに、僕の人間部分は見立てのようなことをしていきます。無意味なところに意味付けごっこをします〉。生きるとはまずひと続きの一人ごっこ遊びだ。と、思った。