製本かい摘みましては(143)

四釜裕子

去年の豆まきで使ったパンダ豆の残りが出てきた。豆まきはうちの方々に豆を打って季節を割るような実感が持てて好きな行事だ。今年は何の豆にしよう。

豆という字のなりたちは食べ物を載せる台の形だと、日経新聞日曜版で連載中の阿辻哲次さんの「遊遊漢字学」で読んだ。単純に考えるならば、マメの丸いかたちが真ん中の「口」、それを茹でるためのふたが上の「一」、下部は炎?くらいに思うが、〈料理を盛りつけるための浅い皿に長い足をつけた台〉の形をうつした象形文字だという。その器によくマメを盛っていたからマメの字になったのかな、というのもあさはかで、〈この字がのちに「マメ」の意味に使われるのは、食物を盛る台と植物のマメが同じ発音だったので、台を表す文字を借りて、植物のマメを意味する文字に使ったからにすぎない〉(マメを意味しなかった「豆」)。ちなみに、ムンクの『叫び』を見ると「豆」の字が浮かぶ。
 
漢字は、真っ白な紙にゼロから書くより、モニターに表示されるいくつかの候補から選ぶことが多くなった。文を書くことと字を書くことはますます別のことになるのだろう。その分、漢字は、書き方が乱暴だとか間違っているとか教養判定の材料としてではなくて、かたちやなりたちのおもしろさに興味を持つ対象となって、漢字自体のみならず当時のようすも身近に感じられるように思う。阿辻さんの連載を読みながら、いつも出てくる漢字を紙に大きく書いている。

国宝指定の写本の閲覧を申し込んだ図書館から、雨の日は書庫から出せないので閲覧する朝に確認の電話をするように言われた、という話があった。「晴耕雨読」の話題が続くのだが、この出典が実はなかなか見つからないそうだ。阿辻さんの推理が始まる。

中国で書物が印刷されるようになったのは十世紀以後のこと。それまでは写本で、唐代の写本などはそのほとんどが麻を原料とした紙を使い、全体が黄檗で染められていた。黄檗の種子には毒性があって防虫効果が高い。それほど書物を大事にしていたということだ。大切にする人ほど、紙を湿気にさらすのは嫌ったはずである。雨が降れば、書物はできるだけ広げないようにしたのではないか。となれば、「晴耕雨読」という言葉は、印刷で本が大量生産されるようになって、紙に書かれた本を大切に保護する習慣が薄れてからあとにできたのではないか、と言うのである。(「晴耕雨読」はいつ成立したか)

【「韋編三絶」した読書家の伝説】ではこんなことも書いておられる。漢字の歴史は三千年超。紙が発明されたのは紀元前百年前後で、その前は竹や木を削った細長い札(「簡」)に字が書かれていた。複数にわたった場合は順番に紐で綴り合わせたので、それが「冊」という字になった。孔子は簡に書かれた『易』を好んで読んだ。麻の綴じ紐がたびたび切れてしまうのでなめし革に替えたが、それでもすり切れたという。〈ある書物を何度も繰り返して読むことをいう「韋編三絶」も、このような書物の作り方から出た表現であった〉。なめし革で綴じた実物は見つかっておらず、これはあくまで伝説、ともある。

竹や木の札に書いていた時代、間違いを直すとなれば削るしかない。古代の書記たちはそのためのナイフ「書刀」を腰にぶら下げていたそうだし、黄色い写本時代の修正は硫黄を塗ったそうである(「一字千金」は自身の表れ?)。紙の時代には、消しゴム、修正液、修正テープなんていうものがあった。と言われる日がいつか必ず来るんだなあ。「遊遊漢字学」は1月の最終週で100回目。一冊にまとまるのが待ち遠しい。