10月に水声社から刊行されたヤリタミサコさんの2冊の評論の装丁を担当した。最初の打ち合わせは夏の暑い日で、これまでの作品や活動からヤリタさんが今回どのようなものを望んでいるかは想像できたが、詩人・高橋昭八郎の作品を表紙に使ってね、という課題には、咄嗟に喜んだがたちまち内心凍りついた。どうしよう、好きすぎる。ヤリタさんに、背中を押される。
作品をいくつか選んでラフを作るが、何度やってもどこかで見たようなものに仕上がる。さんざんやったあとで気づくのは遅いのだけれど、昭八郎さんは「gui」という同人誌の表紙をご自身の作品を用いて長年デザインされていて、私も数年前からその同人誌に参加しているものだから、憧れをもってずっと見ているのであった。単純な憧れはたやすく意識下に入り込み、こうもたやすく言動に現われる。これはきっといくらやってもダメだな――と、思った。
ガックリきて作業を放置していたある日、水声社さんが「帯はあってもなくても良いですよ」と言っていた(ような気がする)ことを思い出す。帯なしならばデザインするうえでのハードルはひとつ減る。そもそも、日本の出版文化は独自に帯の聖域を育んできたけれど、たいていの人は本を買ったら帯をはずすだろうし、買うときにどれほど頼りにしているかわからないし、書店にすれば破けたりはずれたりで厄介だろうし、出版社にしてもその効果はつかみにくいからお決まりでつけるのはどうかなと思いつつ、かといってなくても良いとは言いにくかろうに、思いきりの良い版元さんだ。
帯といえば3年前に、作るうえでの幅の限界を知るべく、製本工場を見学したことがある。「トライオート」という機械で、帯は表紙カバーと一緒に掛けられていた。続けて、スリップやはがき、しおりなどもはさみ込む。この一連の工程は日本独自のものなので、機械も国産である。西岡製作所というメーカーで、昭和46〜50年頃に開発したと聞いた。この機械の性能によって掛けられる帯の幅に限りがあり、見学した工場では2.5〜13cmだった。確かに帯幅はだいたいみなそんなもの。範疇外なら一冊ずつ手で掛ける。今でもそういう業者さんが健在なのだ。ただここ最近は幅広の帯が増えているように感じるから、機械の性能が向上しているのかもしれない。
さて話は戻って。「帯はあってもなくても良い」と聞いたことにして、ダメモトで好きに考えてみる。手元の数冊の本の帯をはずして拡げて戯れているうちに、高橋昭八郎の「ポエムアニメーション5 あ・いの国」(1972年)が頭に浮かぶ。この作品は、同じ大きさのごく細長い長方形の2枚の紙を交互に三角に折り畳んだ4つのセットからなるもので、合計8枚の紙にはそれぞれ別の美しい印刷がなされている。この8枚のパーツこそ、本の帯に形が似ているではないか、細長い、まさに帯状の。これをヤリタミサコの2冊の本の帯としてそのまま8種類再現してはどうだろう。なぜか知らないが1冊につき4種類の帯がアトランダムに付いている。帯には書名も著者名も版元名も、宣伝文句も推薦文も何もない。従って本体と離れたらそれがなにものかわからないが、極めて美しい。ああなんて無用で離れ難き帯! (つづく)