製本かい摘みましては(61)

四釜裕子

(前回より続く)
東京製本倶楽部のお誘いで姫路に皮革工場を訪ねた日、午後になって雨脚が強くなった。昼ご飯を食べた店の前は一方通行、広い通りまで駆け足してタクシーをひろう。分乗して新敏製革所へ。姫路に伝わる白鞣しについて、社長の新田眞大さんに話を聞くのだ。川沿いの道をどんどん行くと3階建てくらいの無骨な建物が見えてきた。看板はないけれど、中をのぞくと午前中に(株)山陽で見たドラムが静かに回っている。がらんとしたその奥には天井から白い革が数枚ぶらさがっている。右手には真新しいドラムがあって、突起など中の構造がよく見える。なるほど、こんなふうになっていたのか。この突起の形も試行錯誤があるのだろうな……など勝手に見ているが人の姿がない。こんにちわーこんにちわー。いずこからか新田さんが現れて、さあどうぞと階上にお招きいただく。外観からは想像しがたいウッディな小部屋、白鞣し革で作った鞄やブーツや、革をキャンバスにしたアート作品が並んでいる。奥は工房だろうか。

新田さんは製革業を営むいっぽうで、失われつつあった従来の白鞣しを保存研究するために、2000年に地元の元職人さんたちと「姫路白鞣し保存会」を立ち上げた。今はその技術を自らに獲得することに集中していて、工場はお一人で守っているそうなのだ。保存会を作るきっかけになったのは、同年5月にドイツから自治省に届いた手紙。100年前にドイツの製革専門家が姫路の白鞣しの技術を調査した記録を読んだというロイトリンゲン皮革研究所鞣し技術学校のモーグ校長からのもので、「環境保護からみて先例のないこの白鞣しの技術を保存するべきだ」とあったという。白鞣しは印伝などと同じ油鞣しで、用いるのは塩と菜種油のみ。手紙が届いたころすでに姫路市内でこの技術を持つ人は一人しかおらず、工程が分業されていたこともあって散り散りになっていた情報を保存会がなんとか集めて再現し、2年後には革の展示会に出展するなどして保存研究につとめている。

「白鞣し」なんて知らなかった。姫路のお土産品の白地に小花が描かれた財布が思い浮かぶくらいで、地の白について考えたことがない。聞かれれば、白く染めてるんじゃない?と答えただろう。そうではない。この方法でなめすと白くなるのだという。「漂白の技術ということですか?」「違う違う、革が白いんです」「……」。この日午前中に見たクロムとタンニンの鞣しはそれぞれ溶剤の色に染まっていたから、それが何もないとすれば皮そのものの色があらわれるというのはわかる。でもそれが白なのか。せいぜい肌色とかベージュとか、そんなような色ではないのか。実際の白鞣し革はとろりとした白さがあって、乳白色といっていいだろう。新田さんに「ミルクの匂いがするでしょう」と言われればそんな気もする。野球のボールに使われていたこともあり、「白球」とはこの革の白さに由来するらしい。竹刀に使われている白い革もこれ。自分の手の甲の皮を見る。色が白いね、と言われるけれど、白ではない。この皮も、白鞣しすれば白くなるのか――。

ビデオで製法を見せていただく。まず、原皮の周囲に紐を通して川の水に漬け、毛根に発生する酵素で脱毛をうながす。漬ける日数は気候によって4〜12日、短くては毛が抜けないし、長くては皮が腐ってしまう。ほどよく見計らって河原にあげて天日で乾かし、かまぼこ状の道具の上に広げて毛を抜く。皮の裏の脂と毛根をかきとって塩をもみこむ。そのあと、乾かしたり濡らしたり菜種油を塗りこんだり、膝やかかとや手やヘラで伸ばすことを繰り返し、原皮からおよそ3カ月でやっと仕上がる。牛1頭分の皮を鞣すのに用いるのは菜種油がグラス1杯、塩は両手いっぱい程度。塩や菜種油を中央に置いて皮で包み込むしぐさはパイ生地にバターを練りこむようでもある。皮が徐々に白みを帯びてゆくのは確かに漂白ではなく、毛穴を押し広げてはそこにひそむあらゆる雑味を抜いてゆくことなのかなと思う。ビデオが終わる。外は雨。昼よりもさらに激しくなっている。新田さんが言う。「晴れた日のほうが白鞣しの革はより白い」。そして、革を手にとりちょっとくすんだ部分を両手でもむ。「もめば白くなります」。ほんとうなのだ。

この日の午前中、タンニン鞣しが30〜40日もかかると聞いて驚いた。でも皮の鞣しをはじめて見たのに、いきなり「30〜40日もかかる!」と驚くのはおかしな話だ。その前にたまたま見たクロム鞣しと比べたら時間はかかっているということで、そしてそれが値段に反映するのを想像できたというだけのことだろう。午後にビデオで見た白鞣しの工程では、かかとや膝や両手をぐっと突き出し全身の力を込めて皮を伸ばす作業が1日8時間、それがおよそ50回繰り返されると説明があった。数字としての時間の長さもさることながら、牛1頭の皮を革にしていく人1人ずつの体力とその動きに圧倒されてしまった。なにもこんなに白くなるまで丹念に鞣さなくてもいいのではないか、ほどよく柔らかくなったところでやめたっていいのではないか、そう思わせる強烈な迫力に満ちていたのだ。

この方法は越前や出雲経由で大陸から4〜5世紀ころに姫路に伝わり、日照時間が長くて温暖で風通しもよく、きれいな水に恵まれた高木地区(新田さんの工場のあるところ)に定着したようだ。地域を流れる市川という川がことに適していて、同じ姫路の龍野地区を流れる川では発酵が進みすぎて向かない(こちらでは醤油が有名)という。市川の河原は40年くらい前まで草1本なかったそうだ。農業のかたわら製革業に携わる人たちが作業をする場所として、常に掃除をしていたからだ。明治4年にドイツから製革の技術者が和歌山に招かれて植物タンニン伝習所が作られたのが日本におけるタンニン鞣しの始まりで、姫路はその下請けとして製革業に携わる人が増えたという。白鞣しも戦後は化学薬品を用いるようになったそうである。新田さんは従来の白鞣しの手法を再現したうえで、川の水を場内にひいたりドラムを用いるなど現代にみあった改良を重ねている。またもともと白鞣しは牛皮であったが、鹿皮もやられているようだ。「技術はまだまだ」と、自分に厳しい。最後に新田さんが鞣した牛革を見せていただく。重たい。なにしろまるまる牛1頭分だ。なかほどに小さな汚れがある。「なんだと思う? 血ですよ、僕の」。執拗に繰り返される強烈な手もみの痕。白鞣しとは格闘技なのであった。(この項おわり)