製本かい摘みましては(63)

四釜裕子

1605年にストラスブールで世界最古の新聞「レラツィオン」を創刊したヨハン・カルロスというひとは、製本職人をしながらその副業として新聞を作ったそうである(2010.9.17 朝日新聞)。最初は手書きだったがまもなく活版で刷るようになり、週に一度の郵便配達に合わせて木曜日に刊行する。そのアイデアを誰かに横取りされては困ると、市の参事会に請願した日付入りの文書が見つかったというのだ。請願はもちろん却下。これまで最古の新聞創刊年は1609年とされてきた定説をくつがえす史料が見つかりました、というのが記事のメインだが、その人が製本職人であったこと、そしてその副業ではじめましたというのがよほど気になる。ただしそれ以上の情報はないようで、人物像は謎のまま。

日本に洋式製本がもたらされたのは、A.パターソンの来日による明治6(1873)年とされている。だがそれ以前に、日本人の職人が行ったと思われる洋装本があるらしい(岡本幸治「『独々涅烏斯草木譜』原本は江戸期の洋式製本か?」『早稲田大学図書館紀要』45号、1998年、pp.24-42)。図書館の依頼で『独々涅烏斯草木譜』を修復した岡本さんの緻密な分析によるもので、布の裏打ちの仕方や角の折り方、刷毛の塗り跡を見つけては、和装本の高い技術を持つ人によるものではないかと推理が進むようすがすばらしい。さかのぼって、日本に冊子本がもたらされたのは9世紀初め、中国から空海が持ち帰った『三十帖冊子』が最初である。昨年夏、京都府教育委員会がその修復を発表したが、これでまた推理が重なり、新たな事実が示されるのだろう。このことについて書物学の小川靖彦さんは、”正式な形態”とされていた巻子本から”ノート的”な冊子本へ装丁法が移行するころの、貴重な資料が得られるだろうとブログ「万葉集と古代の巻物」に書いている。中国にはもっと古くから冊子本があったのだが、書写・製作年代がはっきりしている最古の冊子本が『三十帖冊子』だからという。

小川靖彦さんの『万葉集 隠された歴史のメッセージ』(角川選書)には「書物」としての『万葉集』の見方も描かれていて、ブログと合わせて興味深い。原本を失った『万葉集』のどの写本・刊本もまたそれぞれ一部の「書物」であることを、古写本のそれぞれの特徴を解説しながら明らかにしてくれる。そして小川さんが推理した原本はおよそ想像を絶するものだ。これを朗々と読み上げるとは超絶スペシャル劇場のいかんばかりか! 『万葉集』の古写本の多くは、料紙1枚づつを二つ折りして折り目の外側を糊付けして重ね合わせる「粘葉装(でっちょうそう)」だそうである。ほかに、尼崎本は料紙を数枚重ねて二つ折りしたものを幾折か糸で綴じる「綴葉装(てっちょうそう)」、西本願寺本は表紙の右端に綴じ穴を空けて糸で結ぶ「大和綴(結び綴じともいう)」と、綴じだけ見てもいろいろある。文字の使い方や組み方、紙の種類や装飾、墨の濃淡に筆の運び方など、かたちを変えながら中身をつないできた『万葉集』の1200年を思うと、このあとの1200年がさほど気の遠いものでなくなる。

今春から刊行がはじまった林望さんの『謹訳源氏物語』は、表紙まわりの装丁も林さんがなさっている。〈本書は「コデックス装」という新しい造本法を採用しました。背表紙のある通常の製本法とはことなり、どのページもきれいに開いて読みやすく、平安朝から中世にかけて日本の貴族の写本に用いられた「綴葉装」という古式床しい装訂法を彷彿とさせる糸綴じの製本です。〉と記してあって、そのことがまた話題になっている。ぱっと見たところ、通常の機械による糸綴じだし、背がむき出しなのは『食うものは食われる夜』(蜂飼耳著 思潮社 菊地信義装丁)など前例があるし、なにより、「コデックス装」というのはネーミングなんだろなと思ってもどうにもピンとこない。でもこの装丁で注目すべきは実はそんな文言ではありません。背丁がないのだ。丁合とるのが、あるいは検品が、さぞや手間ではなかろうか。そのための作業の工夫が、現場にはあるんでないかな。