製本かい摘みましては(92)

四釜裕子

「夕方から雨になるでしょう」。天気予報はそこで終っていただきたい。傘をお持ちになったほうがいいなんて続けずに。予報通り小雨になった今夜、傘を持たない人を傘に入れて駅までいっしょに歩きながらこの話をしていた。傘を持つかどうかは自分で判断するからよけいなお世話、というのがその主旨だ。「よけいなお世話と言えば」、とその人がエンディングノートの話をはじめた。おやじがなくなったときの面倒を思い出してなにかしら自分は用意しておこうと思うのだが書店にならんだエンディングノートの用意周到気遣い万全、押しつけがましさにほとほといらだつ。無地の大学ノートでいい。書くべき時期も内容も自分で決める。探していながらなんだけど、よけいなお世話なんだ。なにしろ鍵付きや革製まであるんだよ。自分で買うならまだいいが「はい、おとうさん」なんてプレゼントされたらたまらない、鍵付きや革製なんてそういう使い方を想定しているんじゃないかしら、と。

自分自身が書くつもりで手にしたことがないからかおしつけがましさはわからないが、商品としてのエンディングノートには私も似た不快を持つといいながら、鍵付きという言葉にむかしむかしの日記帳を思い出していた。いわゆる交換日記というやつで、2人、あるいはもっと多くでお金を出しあい、サンリオショップで何冊も買った。たいてい数ページで終わったし、手元に残ったものはない。自分用の日記帳といえばサンリオやキャラクターのものではなく、ごく普通の大学ノートや無地のノートが多かった。どういう基準で選んでいたのか、今思えば子どもなりの背伸びだったのかもしれない。最初のページに「この日記帳を見たひとは死ぬ。」と書いていた時期もある。特別隠し置くことはなかったから、死ななかったけれど家族は読んでいただろう。

ある詩人が生前書きためた創作ノートを見る機会に居合わせた。書きなぐっているように見えていて、その実、ページを大切に埋めている。常に持ち歩いて思いついたら書き留めていたたぐいのものではないだろう。そのうちの一冊に、周囲から声があがった。このノート、私も使っていた。あ、僕も。A5版のなんてことのない無地のノートで、白のビニール製テーブルクロスのようなものが表紙カバーになっている。背幅が1センチほどあり、詩人はこのノートをよく開いて書き込んでいたと想像できるから、糸綴じではなかろうか。この場で資料をおし開くことはできないので確認はせず。無地のノートといえばこれしかなかったよね、とその2人は言う。中学卒業のときにサイン帳にしたんだ、170円くらいじゃなかったかなと、猛烈な記憶力を持つひとりが言う。背に「SHAK-UNAGE No.WN-B.R.」とあるばかりで、メーカー名は記されていない。

コクヨのウェブサイトを見てみた。1905(明治38)年、富山県出身の黒田善太郎が大阪に開業した和式帳簿の表紙店が最初だそうである。ノートの製造は後発で、最初に手がけたのは戦時中とある。グレーの表紙にクリーム色の本文用紙といういわゆる大学ノートは、1885(明治18)年ころには日本で発売されていたそうだ。コクヨが昭和34年に発売した無線綴じのノートは当時にしては珍しく、ページを破ると片方のページも抜け落ちる糸綴じノートの不便を解消しようとしたようだ。以後、ミシン目付き、スパイラル綴じ、キャンパスノートと続き、「SHAK-UNAGE No.WN-B.R.」らしきものはない。文具メーカーのものではないかもしれない。いずれにしても、文房具店で子どもでも買える無地でシンプルなノートが珍しい時期があって、それを好んで使っていた人がけっこういたようである。

今ではノート売り場はたいへんな賑わいだ。ノートというより雑貨の態か。本屋も雑貨屋と見紛う場所がある。タイトルにひかれて手にした本が、箱入りで派手で豪華すぎる装丁というか完全にパッケージになっていたのに気がひけて、というか、余計だと思ったので棚に戻した。パッケージをはずした特装本か電子本として出たときに、買おうと思う。