水牛的読書日記 2021年6月

アサノタカオ

「水牛的読書日記」と題したこの連載。1年間の読書のテーマやジャンルをしっかり決めて、毎月数冊の本を紹介しようと考えたのだが、気負いすぎたというか無理があったみたいだ。なぜかというと、自分は日々なんらかのテーマにしたがって系統的に本を読んでいるわけではなく、編集の仕事や個人的趣味による関心はそのときどきによってあっちに行ったりこっちに行ったりするから、読む本のジャンルもばらばら。すこし方針をかえて、そぞろ歩きの最中に気まぐれで描くスケッチのように、でも「水牛のように」という場に吹く風を意識しながら、毎月の読むことの記録を書いていこう。

6月某日 黄晳暎(ファン・ソギョン)の『たそがれ』(クオン)が刊行された。韓国文学を代表する作家による中編小説で、2019年国際ブッカー賞の候補作にも選ばれた。本作りのお手伝いをしたのだが、韓国文学の分野ではホ・ヨンソン詩集『海女たち』(新泉社)につづいて、訳者の姜信子さん、趙倫子さんとの共同作業になる。見本が鎌倉の自宅に届いた。美しい装丁と印刷。校正刷でテキストはなんども読んだのだが、まあたらしい書物のカバーや本文のページをなでたりさすったりすながら、あらためて読みかえす。
作家は1943年満州生まれ、解放後に平壌を経てソウルに移り住み、文学活動と並行して、光州事件など民主化運動の現場に身を投じた。朝鮮戦争を経験し、若き日にはベトナム戦争に従軍、のちに北朝鮮訪問後にヨーロッパへ亡命し、韓国帰国後に国家保安法違反容疑で逮捕され、5年間の獄中生活。朝鮮半島の激動の歴史を丸ごと抱えこみながら、時代の力にひとり抗い、文学界の大御所にもかかわらず過去に安住することなく、韓国社会の「いま」に真摯に向き合いつづける姿勢がすごい。
『たそがれ』の主人公のひとりは、軍事政権による開発経済の恩恵を受け、建築家として成功した初老の男性。こちらは作家のほぼ同世代と思われる。もうひとりは、急速な発展の結果として拡大した現在の格差の中で、多くをあきらめながら苦しい生活を送る、20代後半の劇作家の女性。交互に展開するふたりの語り、ふたつの世代の声のかさなりとすれ違いを通じて、「持てる者が失わなければならなかったものは何か。持たざる者がなお手放さないものは何か」を問う。
黄晳暎の自伝『囚人』全2巻(舘野晳・中野宣子訳、明石書店)。あまりの大著ゆえに編集作業中には手に取ることを控えていたのだが、満を持してこちらも読みはじめる。

6月某日 3年半ほど勤務した東京の人文社会系出版社を退職した。自由の身となったが、これからのことは未定。さて、どうしよう。

6月某日 西川勝さんのお誘いで、京都へ。「某」介護事業所で開催されている宮沢賢治の読書会に参加。コロナ禍ゆえにいちおう「某」などと自己検閲しているのだが……。関東方面からの往路の新幹線では、西川さんの著書『ためらいの看護』(岩波書店)と立岩真也さん『介助の仕事』(ちくま新書)を。介護、介助、看護など「ケア」の現場の声に関心をもつようになったのは、いまから7年ほど前、看護師で臨床哲学者の西川さんのエッセイ集『「一人」のうらに』(サウダージ・ブックス)の編集をしたことがきっかけだ。小澤勲さんの編著『ケアってなんだろう』(医学書院)も車中の友だったが、この本を含む「シリーズ ケアをひらく」は全冊読破しようと決心しつつ、なかなか実現できていない。がんばろう。ちなみに、この日の読書会の課題作品は、賢治の「ひかりの素足」だった。
夜、現在は認知症の人と家族の会・大阪府支部の活動などに関わる西川さんと、久しぶりに近況を語り合う。一泊して翌日、午前中は鴨川のほとりのベンチで昼寝(朝寝?)をしてぼんやり過ごしたあと、開風社・待賢ブックセンターへ。店内で開催中の吉田亮人さんの写真展を鑑賞し、吉田さんの新著『しゃにむに写真家』(亜紀書房)を購入。帰路につく。

6月某日 『韓国文学ガイドブック』(Pヴァイン)が刊行され、見本が到着。黒あんずさんの監修、執筆陣は総勢15名。自分もこの本にライターとして参加し、韓国のエッセイと詩をテーマにした2編のコラムを寄稿した。近年は「ブーム」とも言われ、邦訳書も続々と刊行される韓国文学の背景にある歴史、社会をきちんと解説したうえで、また韓国の出版や書店、ドラマやK-POPなど周辺事情の話題も取り上げつつ、専門家というより読者に近い目線から作家や作品を紹介する構成で親しみやすい内容だと思う。編集の仕事で多少韓国文学に関わることはあるが、ひとりの純粋なファンとして、おすすめしたい本を紹介した。黒あんずさんの「まえがき」がすばらしい。「そう、だからこれは『私たち』の物語なのだ。これらの物語を読んだ私たちは、いつのまにか見えないバトンを手にしたのだ」。執筆陣のなかに、西荻窪の書店・忘日舎の主である伊藤幸太さんの名前があり、うれしかった。

6月某日 帰宅したうちの高校生から聞いた話。学校の同級生が、韓国の人気作家チョン・セランの小説『屋上で会いましょう』を教室で読んでいたという。我が家では自分はもちろん、K-POP(NCT)ファンのうちの高校生本人も読んでいて、よい本は次世代にもしっかり届き、広まっていくことを実感した。すんみさんの翻訳、亜紀書房の本。出版業界にいると「本が売れない」と暗い話を聞かされることが多いが、ひさしぶりに希望を感じた。

6月某日 特別養護老人ホーム・グレイスヴィルまいづるで開催されている「とつとつダンス」のワークショップに、オンラインで参加。講師でダンサーの砂連尾理さんや参加者のみなさんのお顔をひさしぶりに見ることができて、それだけでうれしい。以前、砂連尾さんの『老人ホームで生まれた〈とつとつダンス〉』(晶文社)の本作りのお手伝いをした縁で、「グレイス」を何度か訪問したことがあった。会社勤めをしていると平日のイベントやミーティングにはなかなか出席できなかったのだが、これは「退職」のたまものだろう。
砂連尾さんが東京から画面越しに、京都・舞鶴のお年寄りに身振り手振りを交えて語りかける。声をあげるひとあげないひと、動くひと動かないひと。なかには、終始はにかむように押し黙ったまま、でも砂連尾さんの身振り手振りをずっと真似ているおばあさんも。そんな様子を自宅PCの画面越しに見学しながら、みなさんのひとりひとりのお顔から大切な宿題をいただいた感じ。本棚から引っ張り出した戸井田道三『幕なしの思考』(伝統と現代)などをぱらぱらとめくりながら、いろいろなことを考えている。

6月某日 依頼があり、三重県津市のブックハウスひびうたへ。小田原から新幹線に乗って名古屋で下車、近鉄に乗り換えて紀伊半島の海沿いを南下し、久居へ。はじめての駅で降りると山も近い。海山のあいだなのだなあ、とひとり旅情にふける。
「ひびうた」では、ここ数年、自分が忘日舎など各地の書店で主宰しているトーク&読書会のイベント「やわらかくひろげる」を開催。いっけん難しそうに思える文学などの本を、自分自身の体験に根ざしたことばに引き寄せ、ほかの参加者の語りにも耳を傾けながら、想像力を「やわらかくひろげる」という主旨。今回の課題図書は、詩人・山尾三省の講義録『新装 アニミズムという希望』(野草社)。前半は著者とこの本について紹介し、後半は参加者のみなさんとともに三省さんの詩「土と詩」をじっくり読むワークショップをおこなった。毎回感じることだが、場の空気をほぐしながら意見を聞いてみると、ことばをめぐってじつに多様な視点や多様な解釈が飛び出しておもしろい。イベント会場には、愛読する『のどがかわいた』(岬書店)の著者、大阿久佳乃さんも来てくださり、自主制作する『パンの耳』5号をプレゼントしてもらった。所収の「散歩の話」という作品がとてもよかった。
「ひびうた」は「目の前の一人から、居場所をつくる」をテーマに、障害者福祉を軸にした事業をおこなっている。三省さんは70年代に家族とともに屋久島の一湊白川山に移住し、耕し、詩作し、祈る暮らしを続けた作家だが、彼にとっても「居場所をつくる」は切実なテーマだったはず。今回のイベントでは話し忘れたこともいくつかあるので、ここでの『アニミズムという希望』の読書会はオンラインを活用して継続的におこない、いろいろ掘り下げていきたいと思う。
ちなみに古い民家を改装した1Fがコミュニティハウス(まちライブラリー@ひびうた文庫)とコーヒーハウス。ノンカフェインコーヒーとハイカフェインコーヒーはどちらも絶品。そして2Fが本屋さん。イベント前にいただいた、伊勢屋の出前の定食がおいしく、主の親父さんがよい人だった。ごちそうさまでした。
翌日はふたたび近鉄に乗り、田中真知さん『旅立つには最高の日』(三省堂)を読みながら、のんびり奈良まで移動して市写真美術館で山内悠「惑星」展を鑑賞後、駅近くのお菓子屋「まめすず」でお茶とすもものケーキを。お店にはよい本があり、よい猫がいた。よい出会いの日々がつづく。夜、京都の定宿で休んでいると、西川勝さんから電話に着信があり、今月2回目のお誘いを受ける。

6月某日 京都の定宿を早朝にたち、大阪府堺市へ。某デイサービスで、全国各地から介護の仕事をするひとたちが一堂に会し、「自由と福祉」をテーマにした風変わりなイベントがおこなわれると聞いて参加。午前中は西川さんが「幸せについて」と題して哲学カフェを開催、午後はミュージシャンによるライブがあり、ダンサーらによるパフォーマンスがあり、宅老所のスタッフによる寸劇があり。お昼にはカレーとピザをたっぷりいただき、なかなかの濃「密」な時間。コロナ禍の自己検閲ゆえに詳しく書けないのが、くやしい。ここにあつまった介護福祉関係者は、どちらかというとアンダーグラウンドでアウトローでアナーキーで愉快な匂いがするが、本や雑誌でお名前をみかけたことのある方もいた。
会場では、A4判・12ページのZine『GST-1』を入手、帰路、大阪から東京方面へむかう最終の新幹線の車内で熟読する。著者は安田信行さん、かっこいいデザインは細川鉄平さん。ふたりともデイサービスを営み、老人介護の仕事をしている。「『ぼく』のこと」と題された一連の文章は、いずれもケアの現場でおこるさまざまな出来事のわりきれなさを淡々とつづるもので、感情がつよく揺さぶられた。読み終えて、窓の外の流れさる暗闇をじっとみつめながら、今日という日に出会ったさまざまなことばを反芻する。