アジアのごはん(14)タクシン元首相とフライドチキン

森下ヒバリ

9月の中旬までタイに行っていたのだが、帰国して3日目にクーデターのニュースが届いた。その夜、タイのコンケーンの友人たちが酔っ払って電話してきて叫んだ。「タクシン・パイレーウ! チャイオー!(タクシンは追放されたぞ! 乾杯!)」。私見ながらタクシンとクーデターについて思うことを少し書いてみた。

軍事クーデターという手段はよくないが、タクシン元首相が政権を追放されたこと自体はやはりよかったと思う。タクシンは、自分の私利私欲のために権力を利用してきた。権力で法律を捻じ曲げ、買収で司法の目をかいくぐって汚職と脱税を繰り返し、莫大なカネを儲け続けていたのである。批判をするオピニオンリーダーのメディアを次々に買収し、貧困層や農村部の不満をかわすために、これみよがしなパフォーマンス、ピンポイントなばら撒き政策を行った。

議会の多数派だったので国会にも出席せず、政策・法律はトップダウン方式。閣僚、高級官僚は親戚・同期生ばかりを任命。春の反タクシン・民主化運動の高まりで、一度は退任を宣言し再選挙を約束したが、しばらくするとまた首相の座に戻り、政権に居座った。

タクシン政権の経済政策については評価する点もあるかもしれないが、経済発展の成果で豊かになったのはごく一部の人たちに過ぎない。その頂点がタクシン一族だ。これは、いままでのタイの歴史の中でたくさんの権力者がやってきたことと変わりがない。ただこれまでは軍事力でそれをやっていたのである。

それでも、タクシンはまがりなりにも、民主的プロセスを経て選ばれた首相だった。選挙では買収による票買いがあったことは周知の事実だが、買収されて票を入れた人だって、銃で脅されて入れた訳ではなくタクシンみたいな実業家で金持ちが政治をすれば、自分もお金持ちになれるかもしれないと夢見ていただけだ。

タクシンは、タイの国は自分の会社で、国民はみな自分のために働く奴隷社員とでも思っていたのだろうが、けっきょく最後まで思い通りに操れなかったのが、軍部と王室であった。もちろん、タクシンのやり方にだまされない多くの民衆もいたが、今年の春に起こった反タクシン運動も、タクシンはうまくかわしたつもりだったようだ。選挙でまた勝ちさえすれば(もちろんプロパガンダと買収を駆使して)、民主的みそぎになる、と。プミポン国王を慕う民衆の力もあなどっていた。

タクシンが一代で携帯電話会社を興して財を成したのは、有名なサクセスストーリーである。元々警察官僚だったタクシンは、もっと金持ちになるために政界に出た。政治を、権力を利用すれば、ものすごい規模で儲かることをよく知っていた。だから、タクシンの政治理念には道徳も民主主義も何もないのである。

この春、国中を二分した反タクシン運動は、身近なところでも直面した。バンコクのアパートの近所で、いつもビールを買っているソイの入り口の店のおじさんは、経済がよくなったのはタクシンのおかげ、と「ラブ・タクシン」のステッカーを貼り、店の前で客と論争している。そのステッカーを剥がしてしまったので、以後ビールを買いに行っても口をきいてくれない。友達のエム君は「だって、タクシン自身は別に悪いことしてないでしょう。親戚がわるいことしただけで。いいこといっぱいしてるでしょう」みんな、人が良過ぎます。

どんどん増長するタクシンを見て、今ここで高齢のプミポン国王が亡くなったら、大変なことになると思っていた。国王の抑えが効かなくなったら、タクシンは民主主義の仮面を完全に脱ぎ捨ててしまうだろう、と。その懸念が生まれたのは、タクシンがメディア買収を始めたころからである。

メディア買収のきっかけとなったのは、一昨年の鳥インフルエンザの流行のときだ。タイ中で鳥インフルエンザが流行し、鶏肉を売るのも食べるのも、ぱったり途絶えた。そこで、鶏肉消費を取り戻そうと、タクシン首相自ら「火の通った鶏肉は食べても安全」パフォーマンスを行った。安全キャンペーン会場で鳥のから揚げをマスコミの前で食べる、ケンタッキーフライドチキンに入り、席についてフライドチキンをかじる。このパフォーマンスをテレビで見ていると、嫌そうな顔でほんの少しだけ食べていた。大衆的な焼き鳥でなく、タイでは高級な店のケンタッキーフライドチキンでなぜパフォーマンスなのか。焼き鳥は火の通りが信じられず恐くて食べられなかったのかな? と誰もが感じたと思う。

翌週の週刊誌マティチョンの表紙は、ケンタッキーフライドチキンに本当に嫌そうにかじりつくタクシン首相の写真だった。怒ったタクシンは、まず写真を掲載し記事を書いた編集長と記者を更迭させる圧力を会社にかけた。二人は解雇されたが、それでは足りないと思ったのか、マティチョンの会社自体を自分の友人の関連会社に買収させたのである。マティチョンの会社は日本で言えば朝日新聞とか毎日新聞にあたるような日刊紙を出す新聞社である。

これと前後してテレビメディアのiTVも買収。それまで、リベラルなニュース専門チャンネルとして人気を集めていたiTVは、タクシン御用ニュース&流行情報チャンネルに変わってしまった。さらにリベラルな英字紙のネイション、バンコクポストすらも資本関係を握られタクシン批判が影を潜めていた時期がある。タクシンが次々とメディアを支配下におさめて情報操作をするのを見て、特に都市部では反タクシンの動きが大きくなっていった。とにかくタクシンは批判されることが嫌いで、それがメディア買収に結びついたようだが、それはタイの頂点に立ち、絶対的支配者になりたいとうというカネ以外の権力欲がどんどん膨らんできたことを示している。

タイの王室、特にプミポン国王はかつてない尊敬と畏怖の念を持たれている。不敬罪があるから逆らわない、のではなく、多くの国民が心から国王を愛しているのだ。プミポン国王はその人徳でタイの国民の9割ぐらい(憶測です)から熱狂的な支持を得ているのである。その力は凄いものである。国王は、タクシンに批判的だった。だから、タクシンも最後の一線が越せない。大きな力と利権を持つ軍の幹部を自分の同期生派閥で固めようとはしてみたが、思い通りにはなかなかならなかった。軍部の中で強い力を持っていたのが、王党派だったからである。

王党派もタクシンの野望をくじくためにいろいろ画策した。8月初め、4ヶ月ぶりにタイを訪れると、町中が黄色であった。道を歩いている人、バスに乗っている人、みんな黄色いシャツを着ている。聞くと、プミポン国王の誕生曜日の守護色が黄色で、つまり黄色は王さまを表すのだが、王様への愛と忠誠を示すため、みんなで黄色を着ようというキャンペーンが行われていたのだった。ちょうど国王は病気で入院していたこともあり、バンコクも地方の町も黄色に染まっていた。王さまが退院してからも公務員は全員毎日着ていたし、タクシンでさえ着ていた。

このキャンペーンには、国王への忠誠心を煽り、王さまに取って代わろうかとするような言動のタクシンを押さえ込む深い意味があった。今から思うと、このキャンペーンは単純でかつ巧妙、しかも大きな成果を挙げた。目に見える形で王さまへの国民の忠誠心を示され、タクシン派には大きな圧力になった。そして、国民は意図せずお互いに王さま(タクシンではなく)への忠誠心を確かめ合う。

しびれを切らしたタクシンが、ついに軍部の王党派を突き崩そうとして、首相を狙ったテロを機会に王党派の元締め枢密院議長のプレム元首相をタクシン派の軍幹部でつるし上げ、ついに王党派の軍司令官トップ解任に踏み切り、同期生を司令官に任命しようとしたところで、解任されたソンティ軍司令官が中心となってクーデターが起きたわけである。春に一度タクシンを追い詰めたかのように見えた反タクシン・民主化運動も、タクシンはうまくかわしてのらりくらりと政権に執着した。そしてこの機会に、軍部・王室までも支配下に置こうとしてついに支配者への夢は潰えたことになる。

このクーデターが無血で成功し、国民が平静なのも、一部の軍幹部の思惑と打算によるものではなく、王党派の意思だったからだ。そして、王党派の後には、圧倒的多数の国民に支持される国王がいる。タクシンを追放したのは、実はあの黄色いシャツの波だったと言うこともできる。タクシン派の軍人たちの反クーデターが起きなかったのも、黄色いシャツの波のおかげであろう。残念ながら民主運動の波ではないけれども、これもたしかに人民の波ではある。