Mac Air & Water

管啓次郎

灰色の夏の夕方
仕事机に向かったまま
ついウトウトとまどろみかけていた
(窓の外には泥の海)
すると風が出て
灰色の空が重く下りてきて
雨になった
すずしくていいけれど
少し雨が吹きこんでくる
雨粒が逃げてくる
これではコンピュータが濡れてしまう
眠りはつづく
(小さくはないフェリーボートに乗って
ホテイアオイがびっしりと浮かぶ
小さくはない川を遡上している気分)
キーボードに水しぶきが飛ぶ
でも動くのが面倒だ
そばで仕事をしている若い同僚を見ると
ラップトップが濡れるのをぜんぜん気にしていない
不審に思って、濡れても平気なの、と訊くと
「だってこれ、Mac Air & Waterだから」
と彼女はいうのだ
え、そんなのあるのか、というと
「知らないんですか」と笑われた
デジタル・リテラシーもなく商品知識もない
そうしたことが不要な世紀に生まれ育ったので
あきらめて席を立ち
窓を閉めて
降っているのかいないのかも定かでない
庭に出てみることにした
出がけに紙コップに
コーヒーを注いで行った
仕事が進まないわけを考えつつ
コーヒーを飲みながら歩く
庭には25メートルプールがあり
その向こうには白いテーブルと椅子がある
社長がひとりプールにいて
大きな鰐型の空気マットを浮かべ
そこに寝そべっている
(アーネムランドでもないのに)
紙コップをテーブルに置くと社長が
「今日は気温と湿度の配分がすばらしい」
という。そして「仕事の進行はどう」と訊いてくる
何かが邪魔しています、と答えると
「そうじゃなかった一日があったかしら」
といわれた。別に皮肉ではないのだ
社長はまだ十九歳で
皮肉をいうような年齢ではない
ただこっちが集中できないだけだ
同僚は閉じたラップトップを小脇に抱え
やはり庭に出てくると
いきなりそれをプール越しに投げてよこした
すると投げられたそれがクルクルと
フリズビーのように平らに回転しながら
揚力を受けてふわりと浮かび
こっちに届くまでには円形になっている
ぼくはうわっと声を出して
反射的にそれを受け止めてから
これはすごい!と感嘆の声をあげた
こんな円盤になるなんて
「遠心力よ」と社長が寝そべったままいう
(競技用ビキニを着て
トライアスリートらしい体脂肪の
少ない体型をしている)
銀色のラップトップが銀色の円盤になって
手に持つと重みを感じるけれど
投げて遊ぶにはちょうどいい
ぼくと同僚はしばらく遊んで
宇宙の誰かと交信した気分になってから
また室内に戻った
浮世絵の雨が斜めに降りはじめている
彼女が自分の机にラップトップを置くと
円盤がいつのまにかほどけて
また長方形のコンピュータに戻っている
メタモルフォーシス
形状記憶のトリック
水はまったく平気らしい
キーボードに雨がかかるどころか
手をすべらせてプールに落としても
へっちゃらなんだって
これ、買うよ、欲しい
名前がいいよね、Mac Air & Water か
すると部屋にいたアルバイトの子が
「そういうと思った」というので照れ笑い
地水火風にすぐに引っかかる
ぼくの心を見抜いているのだ
高いのかな、と誰にともなくいうと
別の同僚が「3万円くらいでしょう」というので
またびっくりした
それなら3台くらい買って
二人でジャグリングのように遊ぶのもいい
プールのこっちとむこうで
3枚の円盤を投げ合って
そのつど心は宙に浮かび
運動と静止の統合を味わうだろう
(そうしているうちに時間は過ぎて
プールにはホテイアオイが増殖し
それにまぎれて鰐が目だけ出している
といったことにもなりそう)
不思議な、おもしろい構図だ
長方形の野生だ
次に必要な機能があるとしたら
飛行中の円盤がドローンのように
空中から見えるものを記録してくれるといいな
ただし映像を撮影するのではないんだ
見えている物を円盤が解析し
言葉で描写してくれる
それはそのままぼくの仕事を肩代わりしてくれる
ぼくは苦労もせずに
この世の灰色の表面を書き取る
「おお季節、おお城」
ただしこの城館はホテイアオイの城館で
陽光と水を媒介し酸素を発生させるのだ
水から上がった社長はビキニ姿のまま
書類を点検したり
Siriにスペイン語で天気予報を聞いたりしている
不思議な時代になった
前世紀には予想もできなかったかたちで
計算機が生活や心に入りこんできた
映像画像と文字を同時に
処理できるのが強みだ
心がイメージと言葉でできているなら
両者を束ねて持ち運ぶ「背負子」のような
役目を果たせる機械だ
それだけ心に食いこむ
心のスイスチーズに
穴を開けて住みつく
空気と水に対応できるなら
次は火だ
燃えさかる炎の中を
円盤よ、超えてゆけ
次は土だ
埋められた土の中から
円盤よ、芽吹け
ハワイ島の溶岩平原でも
メコン川のデルタ地帯でも
それを心の故郷として
やがて育つ樹木にも
銀色の円盤がたくさんなって
じゅうぶん熟せば鈴のような
音を立てながら
空へと昇ってゆくだろう
いつも二つか三つの月をもつ
回想の空を支配するために
ブーンと唸り音を出して飛んでゆく
月の未来と交信するために
この円盤は鏡のようでもある
上面が空を
下面が水を映して
それでときどき姿が見えなくなる
このことは比喩ではない
そういうものとして空中に浮かぶことがある