製本かい摘みましては(156)

四釜裕子

買い物袋を持ち歩くようになるとデパ地下がこうも殺風景になるのかと驚いている。政府としてはとにかくオリンピック前にレジ袋の有料化を始めといて「やってます感」を出したかっただけだろうに、ほめてもらいたい相手を失い、陳列棚と通路をアクリル板などで仕切らざるを得なくもなり、現場では「これください」とお願いするとお店の人が隙間から差し出してくれ、こちらはカバンの中からモソモソ買い物袋を取り出して狭いところに広げ、買ったものを放り込むまでジィと待たれて居心地が悪い。「お入れしましょうか」と声をかけてくれる人もいるけれどたぶんそういうことではなくて、これではもはやセルフレジのほうが互いにありがたいのではないかという感じがする。

自宅からスーパーへはカゴぴったりサイズの買い物袋を肩にかけて行きレジで直接詰めてもらうから快適だけれど、買い物の多くはなにかのついでなので持ち歩く薄い袋では不便が多い。コンビニではたびたびビールと何かを買って困っている。一緒の袋に入れたら座りが悪いし水滴で濡れる。小さい袋をいくつか持つとかアンコ代わりに手ぬぐいを持つこともあるが習慣にならない。
ふとよぎったのは、かっば橋商店街のキッチンワールドTDIの長いレジ台だ。いつも新聞紙がきっちり積んであって、清算するとこれでひとまずくるまれる。あの状態で手渡してもらえれば、買い物袋にいろいろ入れても座りはいいだろう。コンビニもレジにいつも新聞紙を積んどいて、「ビールだけ包んでいただける? 2本ずつまとめてでかまわなくってよ」とかなんとか言うのはどうだろう。あり得ないか、そんなの。

斎藤耕一監督の『約束』に紙で包んだ商品のやりとりで印象深いシーンがある。岸恵子に最初で最後の差し入れをしようと開店前の洋品店に飛び込んだショーケンが、下着とかマフラーとか当時圧倒的人気だったらしい「タートル」とかを手当たり次第に買う。しめて5340円、胸元から取り出した100枚はあろうかという札束から1枚を抜いて支払いを済ませると、店主は赤系のぺらぺらの紙で全部まとめて包んで渡したのだった。胸に抱えるショーケン。振り返ると、入ってきた男に体当たりされて包みも金も取られてしまう。
1972年、場所は名古屋の郊外か。当時どれくらいの商店がこうして紙に包んで客に物を渡していたのか知らないけれど、これが持ち手付きの袋であれば、さっと胸に抱える仕草にはならなかったかもしれないし、体当たりされて破けた包装紙のシャカシャカした音はこちらの耳に残らなかっただろう。当たってきた男は三國連太郎。警察だ。床に落ちた包みを拾い上げ、店主に返すのにほこりを払った。パシャパシャッという軽薄な音がこれまた耳に残る。店主から受け取ったと思われる5340円をポケットに入れて表に出ると、仏壇屋が並ぶ通りでショーケンが派手に駄々をこねるのであった。

ひと突きであっさり破れたこの包みはキャラメル包みだったと思う。2、3箇所留めてある透明のセロハンテープが光っていた。こんなに破れやすいのは困りものだが、破れにくいのも困る。
おとというちに届いた古本はやっかいだった。文庫本1冊なのに、カッターで切れ込みを入れた古ダンボールで直方体に仕立ててあり、角という角が布テープで補強してある。どういう具合なのかこれがまったくはがれにくくて、やっとむくと薄い茶紙で包まれた本が出てきて、こちらは縦1本横2本のOPPテープで留めてあるがぴったり過ぎてカッターの刃が入りにくくて、ようやっとむくとOPP袋越しに本が見えたが、これまたサイズに合わせて折った辺が長いセロハンテープでべた留めしてあるのだ。
はぎ取った梱包材にイライラをたっぷり含ませて丸めて捨てた。ようやっと本をめくると、今度は早々に書き込みがあらわれた。しかも赤ボールペン。「書き込みなく良好」って何。ちょっとめくっただけで目に入るでしょうに。この送り主は梱包マニアとでも考えるしかない。

好ましい梱包ももちろんある。最近だと8月中旬、巻き段ボールに包まれて届いた函入りハードカバー1冊は気分がよかった。本の天地プラス10センチ程度の幅でひと巻きしてクラフトテープで留め、天地にはみ出た5センチづつくらいの両端は内側に三角に折り込まれてまとめてクラフトテープでおさえてある。そのテープの両端は真ん中に切れ込みが入れてあり、クロスするようにして貼ってあるのもいい。天か地を開封するだけでOPP袋入りの本が出てきた。こちらは封入口に接着剤が付いたタイプで、サイズに合わせて折ったところには小さく切ったセロハンテープが2箇所で留めてある。開封、かんた~ん! ごみも少ない。送る側の自己満足で梱包を張り切るのはやめていただきたい。

かといって「こころを包む」みたいなことを聞かされるのも困る。ただ、物を包むにはその物をなでることになるので、最後になでた送り手の名残りみたいなものを次になでる受け手が感じることができたなら、そこにはなにか良い匂いがしているのだろう。
ラジオで子どもたちの質問に答えていた小菅正夫さんの口調が今頭を巡っている。「動物園でゾウが死んた。そのあとゾウはどうなるの」という質問だった。小菅さんは、「動物園で死んだ動物はまず、測れるところをとにかく全部測るんだよ」と言った。鼻の長さも尻尾の長さも、足の太さも耳の大きさも……といろいろ言って、それから体の中も見せてもらうんだ、そしてやっぱり胃も腸も、なにもかも測れるところは全部、とにかく全部測るんだ、と言った。部位を言い、全部、全部と繰り返す小菅さんの言葉を、質問した少年がどう聞いたのかはわからないけれど、こちらはぐっときてしまったのだった。
今それを思い出したのは、「測る」というのは「なでる」ということだと合点がいったからだと思う。