(2)シコ・ブアルキになる前、ぼくはカリオカだった

三橋圭介

ブラジルを代表する社会人類学者セルジオ・ブアルキ・ジ・オランダは、「ブラジルの根源(ブラジル人とは何か)(Raíze do Brasil)」(1936)の著者で、民族学者ジルベルト・フレイレや作曲家ヴィラ=ロボスなどとともに、ピシンジーニャ、ドゥンガなどのショーロやサンバ作・演奏家などと交流をもち、サンバがブラジルの国民音楽となっていく過程で重要な役割を果たした。そのかれと音楽を愛し、ピアノも演奏した妻マリア・アメリアの第4子として1944年6月19日、リオ・デジャネイロのサン・セバスチャン病院でフラシスコ(シコ)・ブアルキ・ジ・オランダは生まれた。

2歳でリオ・デジャネイロからサンパウロに引っ越し、8歳までそこに暮らした。シコはサッカーに熱中する普通の少年だった。カトリックの小学校にかよい、8歳のとき、父のローマ大学赴任とともに、家族でイタリアに移る。ローマに旅立つまえ、サッカー好きの少年シコは、祖母に宛てた手紙で将来「ラジオ・シンガーになる」と書いた。ローマでは学校でイタリア語と英語を学び、2年後の1954年にサンパウロに戻るとき、先生はこのように別れの言葉を述べたという。「あなたが成長したら、私はきっとF・B・オランダの書いた物語か小説を探すことになるでしょう」(実際、かれは後にいくつかの物語や小説を書き、名誉ある賞も受賞している)。サンパウロではカトリックの学校サンタ・クルス中学に通い、このときのリオ生まれということから「カリオカ」というニックネームを与えられる。

少年時代のカリオカは読書家で、大学入学まえにトルストイ、カフカなどを読み、とくにギアマランレス・ローザがお気に入りだった。しかし問題児でもあった。車を盗んだこともあるが、「不適切な行動」にたいしてメスがふるわれたのは別のこと。

14歳のとき歴史の教師の勧めで、独裁政権を支持する超国家主義の教会に入会する。教会に足しげく通い、ボランティア活動などを行う。しかし子どもらしさを失い、大好きなサッカーさえ止めてしまう。その狂信ぶりを心配した両親は、母の出身地のミナス・ジェライスの全寮制の学校に強制入学させる。当時の記録によると、母は次のように息子カリオカの様子について分析している。「簡単に影響され、秩序を乱し、目立ちたがる。現状では、協調性に欠け、年齢や状況にふさわしいものに関心をしめさない」。しかし、サンパウロに戻ったカリオカはサッカーや音楽好きの子どもに舞い戻った。

最初に音楽をきいたのはみんながバーバと呼んだ乳母ベネディッタ・モッタのラジオだった。それは家族が10周年を記念してプレゼントしたもので、そこからサンバやマルシャ、ボレロなどたくさんの音楽が流れてきた。なかでも「サンバやカーニヴァルの音楽が好きだった」。そのほかイズマエル・シルヴィアのサンバやカーニヴァルの歌、ポール・アンカやエルヴィス・プレスリー、ジャック・ブレルの歌を好んだ。その後「リトル・リチャード、エラ・フィッツジェラルド、フランク・シナトラ、またジャズではマイルス・デイヴィス、オスカー・ピーターソン、ミンガス、コルトレーンなどもきいた」。

「かれの音楽的なインスピレーションはどこからきたのか?」という問いに母アメリアは「生活の音から」と答えている。この時期、ラジオやレコードを含めメディアの発達と共に音楽が流行し、自宅には父の友人の外交官で詩人のヴィニシウス・モラエスがよく遊びにきていた。かれは子どもたちに物語や自作の詩や歌をきかせてくれた。そんな空気のなか、カリオカは多感な少年時代を過ごした。そしてボサノヴァがあらわれたとき、それはモダンなブラジル音楽として「自分の手の届く何か」だった。

1959年、15歳のときレコードでジョアン・ジルベルトの歌をきき、かれのようにうたったり、ギターを弾きたいと思うようになる。後年述べている。「カエターノ、ジル、エドに会ったら、みんな最初に『Chega de saudade』(1959)をきいたときのことをいう。ぼくの世代はジョアン自身よりジョアンのことを理解した世代だった」。ギターを手にしたときジョアンが先生だった。最初のギター(bossa velha)は姉のミウーシャから取りあげた。「(最初、)たぶん自分でコードを作りはじめていた。というのもジョアン・ジルベルトのギターを再現することができなかったからだ。ジョアンの演奏をきいた通りにやろうとしていた。でもまったく違って響いたが、無意識に作曲家になろうとしていた」。

高校時代、16歳のときに歌をつくりはじめた。そのとき「ギターよりも詩のほうがひどかった」。そのなかの「最悪の1曲、『Anjinho de papel』」は、「ジョアン風の歌にカトリック学校の影響をプラスしたようなもの」だった。最初に人前でうたったのはサンタ・クルス高校で、ギターを弾き、自作の歌をうたった。最初のころ自分の歌しかうたわなかったのは、うたうことができなかったからだ。サンパウロではパーティでみんながギターを弾きボサノヴァをうたっていた。かれは「ギターについて何にも知らないことを思い知らされた」。

当時、音楽で生活することなど想像すらしなかったし、そもそも、母アメリアは子どもが音楽家になることに賛成ではなかった。大学に行かなければならなかった。ヴィニシウスと同じく外交官なるか、それとも作家になるか、しかしどちらのコースも選ばなかった。医者でも技術者でもビジネスマンでもない。消去法により建築を選んだ。シコはニーマイヤーのモダニズム建築(ブラジリアの都市計画)に熱中し、建築家にあこがれた。それゆえ1963年サンパウロ大学(FAU)建築科都市計画学部に入学。しかし大学のカリキュラムより音楽に熱中した。

大学生活は学生センターで友人たちとギターを弾き、歌をうたった。グループの名は「samba」とアルコール臭い息を意味する「bafo」を合わせた「Sambafo(サンバフォ)」。翌年の1964年にクーデターが起こり、学生センターが閉鎖され、大学に行くのを止めてしまう(実際には1967年2月に退学)。実際、クーデターの前からかれは社会科学かジャーナリズムのクラスのある大学に編入しようと考えていた。「建築家になるなんて信じていなかった。ばくぜんとジャーナリストなりたいという考えがあったのは、書くことがすきだったからだ」(1973年の演劇「Calabar」のポスターの裏面に、緻密な想像の都市の地図を描いている)。しかし音楽への情熱がまさった。

その後すぐ、9歳の夢の通りラジオ・シンガーとなった。ラジオ・アメリカの新しい才能を発掘するプログラムで、このときジョアンを真似てうたった。しかしジュカ・シャヴィを真似ていると勘違いされた。後にこういっている。「ジョアン・ジルベルトのように演奏できるのは、ジョアン・ジルベルトだけだ」。1964年10月にはテレビにも登場した。シコは「Marcha para um dia de sol」をうたった。最初にレコーディングされたシコの曲で、歌はM・コスタだった。

12月にはミュージカル「Blanço do Orfeu」のために「Tem mais samba」(「Chico Buarque de Hollanda」)を作曲。しかしこのころはまだ公衆の前でうたうことを避けていた。1965年のTVエセシオール主催の第1回歌謡音楽祭に「Sonho de um carnaval」(作詞・作曲)で参加したときは、ジェラルド・ヴァンドレがうたった(この歌は第5位までに入賞していない)。5月3日にはサンパウロのパラマウント劇場のショーに出演。ナラ・レオン、エドゥ・ロボ、タンパ・トリオがメインのコンサートで、シコは第1部にトッキーニョ、ボッサ・ジャズ・トリオなどと出演する。

その年には、サンパウロの小さなレーベルRGEと契約し、シングル盤として「Pedro pedreiro」と「Sonho de um carnaval」をはじめて自らの声で録音する(このEP盤のジャケットの右上にはBOSSA NOVAと書かれている)。「『Pedro pedreiro』を書いたとき、ボサノヴァの真似でなく、ほんとうに自分のものを書いた気がした。そこから何かがはじまった」。シコは別のインタヴューで次のようにいう。「盲目的にボサノヴァを熱狂した。その後、最初に影響を受けたサンバを再び取り上げた」。「Pedro pedreiro」はボサノヴァの影響から脱し、ボサノヴァの和声やリズムとブラジルのマルシャやショーロなどの伝統を総合することに成功したことを意味している。そしてこの年、TVヘコールの人気番組「O fino da bossa(ボサの真実)」(いわゆるボサノヴァの番組ではない)の参加者の1人としても登場した。

「シコ・ブアルキになる前、ぼくはカリオカだった」と、かれはいった。こうして、1965年、姉のミウーシャとジョアン・ジルベルトが結婚したこの年、カリオカは作詞・作曲・シンガー、シコ・ブアルキへと大きく変貌を遂げようとしていた。「何かがはじまろう」としていた。