ピンクの桜

小島希里

玄関のブザーを押すと、ドアの向こうから、声がする。「ほら、ター君、希里さんよ、希里さん」広い玄関の中に入ると、廊下の向こうから、ター君が駆け寄ってきた。わたしが、映像作家だったら、この瞬間をカメラに収めるだろう。両手を羽根のように動かして、太ももを叩き、左右に大きく揺れながら、25歳のからだがゆっくりこちらに近づいてくる。フレームから出入りする。歓迎してくれているその気持ちが、いつもよりかすかに早い足取りに現れているところを、カメラは捉えられるだろうか。わたしの姿を認め、目を合わせ、立ち止まったター君は、手を差し出すでもなく、声を出すでもなく大きく目を見開き、じっとわたしを見つめている。
「こんにちは」とわたしが声をかけると、くるっと向きを変え、ター君は広い廊下の奥の居間に戻っていった。

がやがやに参加するとき、ター君は、いつもリュックの中に演歌歌手のカセットテープを忍ばせてくる。何よりも、演歌が大好きなのだ。香西かおり、中村美津子、天童よしみ・・・女性歌手の張りのある声が好みなのかな。春がくるまで 桜はさかん、そやけど心は ピンクの桜・・・持ってきたカセットのなかから一本選んでもらい、演歌がなるなかお昼を食べていると、いつも笑いがこみ上げてくる。さて、今日はだれの曲を選んで、聞かせてくれるんだろう。

お茶を飲んでお母さんとおしゃべりしているわたしの横に、隣の部屋からター君が小さなポータブルのカセットプレーヤーとプラスチックの籠をもってやってきた。籠のなかには、カセットテープが20本ぐらい入っている。片手でデッキを膝の上にのせると、反対の手でなかから一本のテープを迷わずつかみ、挿入した。すぐに早送りのボタンを押しつづけぱっとはなすと、再生ボタンに指を移し、音楽をならした。と思ったら、何秒か─―わたしにはなんの歌かわからないほどの何秒間後にすぐに停止ボタンを押し、早送りのボタンで最後までテープを回すと、取り出しボタンを押してテープを出し、裏返して、またテープを挿入。テープをひっくり返し、挿入。そしてまた、早送り、再生、停止、取り出し。次のテープへ。

同じ作業が、10本分ぐらい繰り返された。ター君は荷物一式を持って部屋から消え、さっきのカセットプレーヤーと別のテープのはいったケースを手に下げ、戻ってきた。早送り、再生、停止、取り出し、ひっくりかえして挿入、早送り、再生、停止、取り出し・・の繰り返し。職人のような確実な手つきには、何か使命感のような、達成目標があるような、まっすぐな強い意思を思わせる。お母さんによれば、一本一本のテープのなかの、好きな歌のなかの、好きなフレーズのなかの、ごく一部分だけがききたくて、こうしているらしい。

こうやって、テープをかけていると、カセットプレーヤーは一月もしないうちに壊れてしまうらしい。「だから、ほら」とお母さんが部屋の奥から数台持ってきた。「安いときに、何台かこうやって買いだめているんですよ。もし、カセットデッキを売る店がなくなったら、ほんとうにどうしましょう。ター君、生きていけなくなっちゃうんじゃないかしら」彼はCDには、まったく興味を示さない。厳選された歌のかけらと、カセットプレーヤーの温度やボタンの感触、早送りのときの震動や裏返すときのテープの重みとが交じり合わなければ、求める音は聞こえてこない。

わたしが映像作家だったら、とまた思わずにはいられない。この音と景色を同時に、映し出せたら。お姉さんの「うるさいから、やめなさい」とくりかえす声もいっしょに捉えることができるのに。テープの数は、どれぐらいあるんですか、とお母さんにたずねてみた。「この前、ごっそり捨てたんだけど、それでもまだ、山のように二階にしまってあるんですよ。でも、ター君には小出しにしてわたしているの」心のなかのカメラが、戸棚にしまいこまたテープが居間にぜんぶ並べだされたところを思い描く。テープの海にかこまれたター君がみてみたい。