月を追いながら 歩く(5)

植松眞人

 雲の形は写真と同じになったまま動かない。邦子はそんな雲を見上げながら車を走らせる。カーナビが目的地まであと一キロだと告げる。邦子はハンドルを切って交差点を左折する。大きな牧場が視界に入ってくる。牛や馬はいない。ただ、緑の草だけが敷地いっぱいに広がっている。
 邦子のスマートフォンがダッシュボードの上で、何度か震えて止まる。
「ジュンさんからのメールかもしれない。見てくれる」
「いいんですか?」
「うん。大丈夫」
 邦子はそう言うと、運転しながらスマートフォンを香に手渡す。香は、ジュンさんからですね、と言いながら、少し文面を目で追う。
「読んでもらってもいい?」
 香は、ほんのわずかな間だけためらい、文面をあえて子どもへの読み聞かせのようにはきはきと読み始めた。

『メールは短いのに限る。
私の亡くなった夫がよくそう言っていたけど、
いま私はノートパソコンの前でこれを書いているので、ほんの少しだけ文面が長くなるかもしれません。
あなたからの電話には驚きました。特に、写真の話にはびっくり。自分でもあの写真のことは忘れていたから。電話の時には、とても驚いて、なんだか曖昧な受け答えをしてしまった気がするので、あなたがこっちへくる前に、私が答えられることは答えておこうと思って、このメールを書いています。
あの写真の雲の下には私がいます。とてもよく笑っている私がいます。あなたのお父さんもとてもよく笑っていながらシャッターを切っていました。思わせぶりなのは得意じゃないので書いてしまいますが、あの頃、私はあなたのお父さんに恋をしていました。と言っても、とても可愛らしいもので、あなたのお父さんはそれに気づいていたけれど、たぶん、気づかないふりをしてくれていたんだと思います。こういうことをあなたに面と向かって話す自信がなかったので、私はこのメールを書いたのね、きっと。
あの頃、あなたのお父さんは仕事の関係で、時々、こっちへ来ていらっしゃいました。どこへ行っても、少し浮いてしまう私は、こっちでも、家庭とか仕事ととかいろいろうまくいかなくて、時々訪ねてきてくれる自分より年上のいとこのお兄さん、つまり、あなたのお父さんは私の唯一の理解者だと思い込んでいたのかも知れません。その点については、亡くなった夫には本当に悪いことをしたと今でも思っています。夫は私に本当によくしてくれていたから。
あなたに会えるのは本当に嬉しい。もしかしたら、これ以上お話できることは何もないかも知れないけれど。でも、あなたが嫌でなければ、あなたの知らなかったお父さんについて、何かお話できるかもしれませんね』

 香は長いメールを読み終えると、フロントガラス越しに空を見上げた。邦子は黙ったまま運転を続けた。牧場の柵はまだ続いている。道は牧場をぐるりと迂回しながら、ジュンのいる場所へと続いているようだ。
「あ、馬だ」
 香がそうつぶやいて、助手席のウインドウを下ろした。知らず知らず速度があがっていたのか、ウインドウが開いた途端に、ボワッという音がして、風が車内全体に吹き込んできた。その風が、ダッシュボードの上に無造作に置かれていた写真を舞い上げた。何枚かの写真が、邦子の視界を遮った。ほんの一瞬、雲と空の写真が目の前で静止したように見えた。その写真が視界から消えると、本物の空と雲がフロントガラスの向こうに見えた。モノクロの風景とカラーの風景が交錯して、邦子から現実感を奪い取った。香は、とっさに写真をつかもうと手を振り回す。その手の動きに驚いた邦子が急ブレーキを踏む。車が蛇行する。前方から走ってきたバイクが蛇行する車をすり抜けて走り去る。車を真っ直ぐに立て直そうと邦子はハンドルを切り直そうとするが蛇行は横滑りに変わる。目の前を牧場の緑が横へ横へと通り過ぎていく。まるで、緑の景色を延々と移動撮影している映画のようだ、と邦子は思った。映画を見ながら、死んでしまうのか。そんなことも思ったのだけれど、やがて、緑の横移動はゆっくりと停止した。
 車が鼻先を牧場に向けたまま止まった。後から来た車がクラクションを鳴らしたが、それは危険を回避するためというよりも、邦子たちが無事かどうかを確かめるクラクションだった。
 邦子は我に返ると、小さくクラクションを鳴らして、後続車の運転手に合図をした。そして、こちらの様子を見ながらゆっくりと通り過ぎていくその運転手に「大丈夫です。すみません」を繰り返した。後続車が行きすぎると、やっと香を見ることができた。
「大丈夫?」
 声をかけると、香が何も言葉にできないまま大きく何度もうなずいた。
 邦子は深呼吸をすると車を降りた。そして、二歩、三歩と車から離れて、できるだけ冷静に状況を把握しようと努めた。車はセンターラインからはみ出して斜めになっている。鼻先を牧場の方に向けているのだが、ガードレールにこすったのか、バンパーに目視できるほどの凹みができていた。どう見ても、通行の邪魔になると考えて、邦子はエンジンをかけ直すと、車を前後に何度か切り返して牧場の側にピタリと寄せて停めた。
「ちょっとヘンな音がしますね」
 やっと落ち着きを取り戻したのか、香が声をかけた。
「車に詳しくないんだけど、レンタカー屋さんに電話しといた方がいいわね」
 邦子はそう言うと、携帯電話を取りだした。そんな様子を見ながら、香は助手席の足元に落ちた写真を拾い集めた。邦子の父が撮影した空と雲の写真だ。全部で七枚あったはずの写真が六枚しかなかった。香は車を降りると、車道を歩いて写真を探した。
 辺りを見回しても、写真は見当たらなかった。車道も道路脇の草むらも見てみたが、写真が見つからない。
「怪我はないわよね」
 電話を終えた邦子が香に声をかけた。
「はい、大丈夫です」
「それならいいの。レンタカー屋のお兄さんが『怪我がないなら、こちらから迎えに行きます』って」
「来てくれるんですか?」
「念のためレッカー車で迎えに来て、所定の手続きをさせてもらいますって。ちょっと時間がかかりそうなんだけど」
「それじゃ、写真を探しながら待っていましょう」
「写真、ない?」
「一枚ないんです。ほら、一九八〇年長野にてって書いてあったのが」
「あの写真が私たちをここまで引っ張ってきたようなものなのにね」
 二人は本腰を入れて、写真を探し始めた。晴れ渡っていた空は、知らぬ間に薄く曇っていた。日が傾くのとほぼ同時だったので、急に一日が夜へと足を踏み入れたように感じられた。実際にはまだ午後三時を少し回ったところだというのに、長い一日を過ごしているような気分に邦子はなった。
「あの写真、出てくるかしら」
 邦子はそうつぶやいた。その声を捉えて、香が振り返る。
「出てこない気がするんですか?」
 そう言われて、なぜそんなことを言い出したのか邦子にはわからなくなった。しかし、はっきりと「出てこないかも知れない」という気がした。ただ、それを香に伝えるのは早すぎる気がして、曖昧に首を振るとまた車道のあちらこちらを探し始める。
 香は感心するほど、熱心に写真を探してくれている。自分が窓を開けたせいでなくなったと思っているのかもしれない。でも、写真がなくなったのは香のせいじゃない。邦子はそう思いながら、のびをして空を見上げた。相変わらず曇ってはいたが、少し雲が薄くなり、雲の向こうの明るさが増してきたような気がした。邦子は明るい空と薄く伸びた雲の間に、もう一つ何かがあるのを見つける。大きな月だった。薄く青い空に、白く大きな月が見えていた。邦子は白く大きな輪郭のはっきりしない月に見入った。風の音も、香が歩く音も、遠くから聞こえる車の音も、何も耳に入らないほど、月に見入っていた。
 どのくらいの時間が経ったのだろう。香が邦子の横に立って、同じように月を見上げていた。
「だんだん、月の輪郭がはっきりしてきたわね」
 邦子が言うと、香がうなずいた。
「私、こんなに明るい時間に、こんなに大きな月を見たなんて初めてです」
「私も。でも、気がつかないだけで、いつも見えてるのかもね」
「もしかしたら、本当にいまだけの風景かもしませんよ」
「そうね。それはそれで、なんだかうれしいわ」
 邦子と香はしばらく月を見上げたまま時間を過ごした。
 二人が小さな事故を起こした当事者だということを再び思い起こさせてくれたのは、レンタカー屋のレッカー車のエンジン音だった。
 レッカー車は邦子たちが乗ってきた車の前方に停車した。降りてきた若い男の店員は、必要以上に丁寧に「怪我はありませんか」を繰り返した。そのセリフがとても業務的で、ふいに邦子を現実に引き戻した。
 写真が一枚なくなっている。ジュンさんの家に行く約束の時間が迫っている。車が故障している。目の前の出来事を一つ一つ確認しながら、邦子は、レンタカー屋の店員が、車の破損状態を調べるのを待った。
 車の周囲をゆっくりと一周しながら、用紙に何かを書き込んでいた店員は、運転席に乗り込むと、エンジンをかけてまた車の外に出た。そして、ボンネットを開けて、エンジン音に耳を澄ました。さっきまでは聞こえなかったチリチリという嫌な音が静かな長野の空の下に響いた。
 エンジンを止めると店員は邦子のほうへやってきた。
「たいした破損ではないと思うのですが、このままお貸しするというわけにはいかないんです」
「どうすればいいですか?」
「そうですね。自損だけですから、この車をレッカー移動して、手続きをしていただければ、また新しい車をお貸しすることができますよ」
「え? 貸してもらえるんですか? 新しい車を」
「はい」
「いま事故を起こしたばっかりなのに?」
「会社によっていろいろあると思うんですが、ほとんどの会社は大丈夫です。借りるたびに事故を起こしていたらブラックリストにのると思いますが……」
「事故は初めてです」
「すみません。それなら、大丈夫です。ただ、一度、この車を借りた事務所まで来ていただかなくてはいけないので」
 貸した車を傷つけられたのに謝っている店員がなんだか可愛そうになって、邦子はもう車はいらないと答えた。
「いいんですか?」
「新しいのを借りても、また事故を起こしそうな気がするんだもの」
「そ、それは」
「だから、車はいらないわ。そのかわり、すぐこの先にある家の前までレッカー車で送ってくれませんか。ちょっとご挨拶するだけで、すぐ帰るので」
 もちろん、それが会社としてはルール違反であることは分かっているのだが、この店員なら融通を利かせてくれそうな気がして、邦子は言う。案の定、店員はしばらく手元の用紙を眺めたまま考え込んで、おもむろに顔を上げると、わかりました、と答えた。
「一応、会社には内緒にしておいてもらえるならお送りします」
「いいの?」
「今日は暇なんです」
 店員は笑ってそう言うと、さっきまで眉間にしわを寄せていたのが嘘のようにレッカー車の方へ駆け出した。
 邦子が香に、店員とのやり取りを説明している間にも、店員はレッカー車に破損した車を連結して、移動できる準備を進めている。
「ジュンさんびっくりするでしょうね」
 香が笑いながら言う。
「そうね」
 邦子はそう返事をして、もう一度だけ、車の周囲を歩きながらなくなった写真を探した。

    ■

 ジュンさんの家は牧場から真っ直ぐに車を走らせて五分も行かないところにあった。不動産業者がその一画の土地をひとまとめに買い、十軒ほどの区画に分けて建て売り住宅を作った。そんなところだった。
 それぞれの家々は、特徴のない建て売り分譲住宅にそれなりの個性を与えようと、カーテンの色や壁の色、停めてある自動車の形などで、ささやかに主張をしていた。それが微笑ましくて、小さな事故を起こしたことで、こわばっていた邦子の表情はなごんだ。みんながきちんと幸せを欲している場所で、ジュンさんは暮らしているのか、と邦子は思った。この一画にレッカー車はさすがに似合わないと思ったので、店員に待ってもらい、二人は番地を頼りにその住宅地の一番奥へと入っていく。
 真っ正面に表れた家は、他の家々とは少し違った印象を邦子に与えた。作りはまったく一緒なのだが、ジュンさんの家には、なんの主張もなかった。おそらく、入居したときから、なんの手入れもしていない様子が見て取れた。車も置いていなかった。自転車もなかった。表札も丁寧に書かれたプレートが郵便受けに貼り付けてあるだけだった。ジュンさんの名前だけがフルネームで書かれていた。正面から見える窓はすべて開け放たれていて、開けられた窓際では生成りのカーテンが揺れていた。
「なぜだろう」
 邦子は思わず口にしていた。
「なにがですか?」
 香が答える。
「窓は全部開けられているのに、風通しのいい感じが全然しないの」
 邦子がそう言うのを香は黙って聞いていた。
「風が吹いて、カーテンが揺れて……。でも、私たちは歓迎されていない。そんな気がとてもするの」
 邦子は改めて、正面から見える窓を一つ一つ眺めた。
「なんか不思議な感じがしますね」
 香が言う。
「なにが?」
 邦子が答える。
「ジュンさんに会う前に、あの写真を撮ったのは邦子さんのお父さんだったとか、ジュンさんがお父さんに恋をしていたのだとか、そういう情報を私たちがもう知ってしまっているっていうことが」
「そう言えば、そうよね」
「なんだか」
「もう会わなくてもいいくらい」
 そう言うと、邦子は笑う。
「でも、子どものころ大好きだったジュンさんに会えるんだし」
「そうね」
「こんな機会はもうないかもしれないし……」
 香はそこまで言った後、少しだけ間を置いた。
「私に言えるのはここまでですね」
 そう言われて、邦子は余計に立ち止まってしまう。そうだった。こんなことを言いそうだから、香を連れてきたんだった。邦子はそう思った。それでも、邦子は動けなくなった。車の事故も写真の紛失も、なんとなくジュンさんに会わない方がいい、という暗示なのではないかと思えてきたのだった。
 邦子はジュンさんの家のさらに上を見上げた。日が暮れ始めて、大きな月がよりはっきりと見えていた。月の周囲の空は濃さを増した青になり、月そのものは黄色を帯び始めていた。それでもまだ夜は来ていない。
 どちらでもいい、と邦子は思い始めた。ジュンさんに会っても会わなくても、いいこともあるし悪いこともある、知りたいこともあるし知りたくないこともある、と思い始めていた。
 その時、ジュンさんの家のチャイムが響いた。
 邦子が視線を下げると、香がジュンさんの家の前に進み出て、チャイムを押していた。振り返った香は邦子に微笑みながら言う。
「まずかったですか?」
 邦子は首を横に振りながら答える。
「ううん。いくら迷っていても、こんなふうに扉は開かれるのよ」
 奥から、子どもの頃に聞いたことのあるジュンさんの声がした。それは思いの外、明るい声に感じられた。(了)