歩行者、通ります。

植松眞人

京都でも町屋が残る場所は数が少なくなった。特に、ここは町屋が何軒もつらなり、石畳の路地になっているので、映画やテレビドラマ、CMの撮影で引っ張りだこらしい。今回の映画の撮影でも許可が出るまでに時間がかかった。相手が渋っているわけではなく、依頼が多く、調整に時間がかかってしまうのだ。もちろん、引っ張りだこになると、相手の対応も横柄になる。実際、今回のやりとりも途中から「いやならいいんですよ」と、妙な具合に威圧され、やりにくいことこの上なかった。しかし、そんな鬱陶しさも今日の撮影が終わればきれいに忘れられる。

しかし、若手アイドルが男を追って通り過ぎるというだけのカットを撮るのにすでに三時間。これだけ時間がかかってしまっている理由はただ一つだ。カメラマンのサエキがこだわりにこだわっているからだ。サエキはこの道二十年のベテランで、画作りへのこだわりと、腰の低さで知られている。

そのこだわりが画面に本当に反映されるのか、シンイチにはわからなかった。大学の在学中から、撮影現場のバイトにかり出されるようになって二年。卒業してからもずるずるとバイトはしているが、映画とかテレビの現場を格別面白いと思うこともない。今回も、撮影中に車を止めてくれればいい、という約束で雇われたのだから、当たり前だ。撮影の良し悪しなんて一切わからない。

ただ、車が通れば「車、通りまーす」と声を張り上げ、スタッフに知らせる。本番中は車を止め、自転車を止め、歩行者を止めて、「早くしろよ」と怒鳴られながら「すみません、すぐですから」と頭を下げる。

シンイチは最初、車を止めることが難しそうだと感じていた。しかし、慣れてくると、意外に車を止めることは難しくない。それよりも、車を止めずに現場を通すことの方が難しいことに気がつくのだ。

車や人は「撮影中です。しばらくお待ちください」と合図すると百パーセントとまってくれる。それよりも、撮影の段取りをしているスタッフの脇を車や自転車、歩行者を通す方が、万一のケガなどを考えて緊張するのだ。
それでも、シンイチは大きな声を張り上げて、「車、通りまーす」「歩行者、通りまーす」と安全第一で迅速に動いた。

ところが、だ。カメラマンのサエキはどうやらシンイチが気に入らないらしい。何度も、シンイチの前にやってきては「ほら、ここにゴミが落ちているだろう。こういうのは、一番下っ端が気をつけて拾うんだ」とまくし立てる。シンイチはその度に「どこまで画面に映るのかもわからないのに、そうじなんか出来るか。お前が自分で見て、拾えば良いだろう」と心の中で反論する。もちろん、本人には言えないのだが、そうつぶやきつつ溜飲を下げるのである。

サエキはその後も、シンイチのやることに難癖を付けてくる。思うに、撮影がうまく進まない苛立ちをシンイチにぶつけていたのだろう。それでも、シンイチはなんとか我慢していたのだが、ひとつだけ我慢できないことがあった。それは、シンイチが歩行者を通す度に発していた「歩行者、通りまーす」という言葉をサエキが訂正してきたことだ。
「歩行者、通りまーす」

シンイチは、撮影隊に注意を促すためにそう声を張り上げた。歩行者もシンイチに一礼して通り過ぎていく。しかし、サエキにはそのかけ声が気に入らなかったようなのである。シンイチが、
「歩行者、通りまーす」
 と、声を出す度に、これ見よがしに大きな声で、サエキが言い直すのだ。
「歩行者、通られまーす」

最初は気がつかなかったのだが、シンイチが「歩行者、通りまーす」と言う度に、必ず「歩行者、通られまーす」と言い直す。確かに、車と違い、歩行者にはシンイチの声が直接届くことが多い。となると、「通ります」という言い方よりも「通られます」という言い方のほうが丁寧だ。丁寧な言い方でいらぬトラブルを避けるという配慮があるのだろう。それはわからなくもない。

しかし、それなら「歩行者の場合は、『通られます』のほうがいいよ」と教えてくれればいいじゃないか、とシンイチは思う。普段は周囲に「腰が低い」とか「やさしい人だ」とか言われているサエキの、細かすぎる嫌味な行動がシンイチには気に入らない。逆にサエキの言い方だけはしないぞ、と心に誓う始末なのであった。

「歩行者、通りまーす」とシンイチ。
「歩行者、通られまーす」とサエキ。

サエキは、段取りをしながらも必ずシンイチの「歩行者、通りまーす」を「歩行者、通られまーす」と訂正するのであった。

「歩行者、通りまーす」
「歩行者、通られまーす」

正しいことをごり押しされているような気がして、シンイチは、サエキの声の後にあえてもう一度声を出した。

「歩行者、通りまーす」

それを聞いたサエキがまた声に出す。

「歩行者、通られまーす」
「歩行者、通りまーす」
「歩行者、通られまーす」

歩行者がすでに通り過ぎているのに、しばらくの間、シンイチとサエキが互いをにらみつけながら「通ります」「通られます」と掛け合いを続ける結果となった。

その妙に緊張した空気はすぐに周囲のスタッフにも気付かれてしまった。監督がシンイチを呼びつけた。
「なにしてるんだよ。バイトがカメラマンに逆らってどうする」

そう言って、諭した。シンイチもそう言われると急に冷静になる。すみません、と謝ってまた持ち場に戻った。

撮影の準備が再開される。シンイチが、車や歩行者をスムーズに通すために、声をかけ始める。その様子をサエキはカメラの横で見ている。シンイチが監督に注意されていたのを見ていたためか、心なしか表情がほころんでいる。それがシンイチの気に入らない。

「歩行者、」
シンイチが大きな声で言うと、サエキがシンイチの方を見る。シンイチはシンイチで、サエキに目を向けたまま、唇の端に笑みを浮かべた。それを見て、サエキは眉間にしわを寄せる。そして、シンイチがそのまま、
「通られまーす」
 と大きな声で言った直後、今度はサエキが、
「歩行者、通られまーす」

そう言い直したのだった。いや、サエキは言い直したつもりだったのだが、シンイチが「通られます」と言ったために、ただ二人が同じ言葉を大きな声で言っただけのことになった。周囲のスタッフたちが二人のやり取りに笑った。出演していたタレントも笑い、監督も笑い、数少ない野次馬も笑い、サエキも照れて笑い、シンイチも笑った。