思えば、ジャワの芸術家の系譜をまとめたような資料は、現地でもない。昔は宮廷が芸術の中心だったが、宮廷芸術はみな王の作品とされたので、実際に制作に当たった人の名前が出てこないのだ。芸術家の個人名が出て来るようになったのは、1920年代末から宮廷の財政が逼迫して(世界恐慌で宗主国のオランダが経済的に逼迫したため)、宮廷お抱えの芸術家がそれだけでは食っていけなくなり、宮廷外で活躍し始めたからだろう。
インドネシア独立前後のジャワ舞踊ソロ(スラカルタ)様式の舞踊家、舞踊指導者を列挙した、たぶん唯一の本が、1997年にスマルジョがジャカルタのタマン・ミニから出版した「ブンガ・ランパイ・スニ・タリ・ソロ Bunga Rampai Seni Tari Solo」なのだが、これは著者の個人的な思い出話が多く、各人物のプロフィール全体については述べられておらず、あまり資料として参考にならない。
というわけで、今回からしばらく、現在ジャワ舞踊について調べたり実技を学んだりする上で重要な人物という基準で、ソロの有名な舞踊家、舞踊教師を紹介してみたい。
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1.クスモケソウォ(KRT Kusumokesowo 1909-1972)
スラカルタ宮廷舞踊家。1938年には宮廷芸術の総責任者となる。1950年に設立されたインドネシア初の伝統芸術の学校である、コンセルバトリ・カラウィタン・インドネシア(後のSMKI、現SMKN8)の舞踊教師となり、舞踊教育法としてラントヨを考案。1961年からプランバナン寺院で始まった「ラーマーヤナ・バレエ」舞踊劇の総合振付を手掛ける。「ラーマーヤナ・バレエ」初演時にはまだアトモケソウォという名だったが、翌年に宮廷から新しい官位と名前クスモケソウォを下賜される。
1954年、舞踊作品「ルトノ・パムディヨ」を振り付ける。これは、後の芸大学長フマルダニが、新しい時代のジャワ舞踊として絶賛した。宮廷舞踊のスリンピやブドヨに似た作品を多く振り付けたが、それらは現存しない。振付作品のうち、「ルトノ・パムディヨ」、「ゴレッ・スコルノ」(1960年頃の作)、「クキロ」の3曲はロカナンタ社から出ているカセットに収録されている(ACD-143番)。マリディが改作した子供の舞踊「マニプリ」も、元はクスモケソウォの作。
インドネシアの現代舞踊家のサルドノ・クスモや舞踊評論家サル・ムルギヤント、舞踊家のレトノ・マルティ女子やスリスティヨ・ティルトクスモなど、現在のインドネシア舞踊の著名な人々がクスモケソウォの門下から出ている。
2.ウィグニョ・ハンブクソ(RM Wignyohambekso)
という項目を挙げたものの、実はあまり詳しくこの人について知らない。日本に置いてきた資料にも詳しいデータはなかった気がする。
クスモケソウォが特にジャワ舞踊の基礎を方向づけた人だとすれば、ハンブクソはその創造性で多くの舞踊家に影響を与えた人だと言える。上に挙げたスマルジョも、またサルドノ(後述)も、ハンブクソはいろんな舞踊の振り(スカラン)を作り出す名人であったと言う。
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この2人については、「水牛の本棚 NO.3」に収録されているサルドノの文章にも出て来るので、ぜひ一読を。サルドノは上の2人に師事している。瞑想を実践して自己を厳しく律し、舞踊の基礎を重視したクスモケソウォに対し、ハンブクソはお酒を飲むようなさばけた人で、新しい動きを生み出し…と対照的な人物だったようだ。しかし、この2人のことをよく知る人々から話を聞くと、2人はお互いに尊敬し合い、相談し合ったりもしていたという。たぶん、お互いが自分にないものを持っていたからだろう。