円山町のカフェを出て

植松眞人

 渋谷の道玄坂を中途半端にあがり、円山町のホテル街へ歩いて行くと、流行らなくなった古い連れ込み宿をカフェなどにしている若いヤツらがたくさんいる。坂根はそんなカフェの中から、落ち着けそうな店があるとふたりと立ち寄る。
 いまどきフリーのグラフィックデザイナーなんて、商社の御用聞き営業よりもクライアントのご機嫌伺いばかりだ、と坂根は自分の仕事を卑下している。写真を右に五ミリ移動させろだの、ロゴマークのシアンをあと十パーセントあげてくれだの、言いがかりのような修正に丁寧に対応しなければ仕事はなくなる。この不景気、企業の広報担当者だって、暇で暇で仕方がないのだ。だから、どうでもいいことに言いがかりを付けて、終業時間までの暇つぶしをする。帰る前に、無理難題をメールでこちらにぶつけて席を立ち、明日の朝出社すれば、自分のふっかけた無理難題がきれいに形になって仕上がっているという次第だ。
 ここしばらくそんな仕事の振られ方ばかりしていて、坂根の生活は昼夜が逆転しかけている。埼玉のマンションに強い日差しが照りつける昼前に目を覚まし、うだうだと身支度をして外出し、午後と夕方の狭間のこんな時間にうろうろとカフェ巡りをするだけが、坂根の楽しみだ。いや、楽しみだった時期は過ぎて、すっかりそれが生活のようになっている。言い換えてみれば、夕方、仕事に本腰を入れるまでの時間を楽しむ術を知らないと言った方がいいのかもしれない。
 それでも、ごくたまに本当に過ごしやすいカフェを見つけると得をしたような気持ちになり、夜の仕事を思い出さずに時間を過ごせる。自分の部屋にいると、どうしても仕事のことを考えて、気持ちが滅入ってしまう。フリーのデザイナーなんてみんな同じじゃないかと坂根は思う。
 渋谷の円山町界隈は、最近ラブホテル街としても廃れている。それはそうだろう。東京に住んでいる若いヤツらはほとんど一人暮らしだ。それに、飲んだ勢いで飲み屋のお姉ちゃんを、なんていうヤツはどんどん減っているらしい。四十を過ぎて厄年を迎えた坂根でも、それほど女をモノにしたいという欲求を感じたことがない。知らない女とややこしいことになるくらいなら、一人でゆっくりと眠りたいくらいだ。
 そのおかげで、最近は真新しいきれいなホテル以外は経営が立ちゆかなくなっているようで、昔ながらの木造の連れ込み宿は内装を変えて、おしゃれなオフィスなどに商売を替えている。その小さなオフィスの一室に、坂根が昔から一緒に仕事をしているフリーのライターが事務所を開いたのだった。おかげで、週に何回かは道玄坂をあがり円山町へやってくることになった。まだまだ、見知らぬ町だから駅までの行き帰りにいろんな道を歩いてみるだけで楽しい。坂根は打ち合わせの書類が入ったバッグを肩から吊し、軽い足取りで円山町のあちらこちらを寄り道して歩いた。
 坂根が見つけたのはごく普通の民家のような顔つきをしたカフェだった。入り口だけはガラスの引き戸に変えられているが、全体はいわゆる木造モルタル造りで、子どもの頃に自分が住んでいた家と同じような作りだと坂根は思い、妙な気持ちになった。
 引き戸をあけると、先客は一人だけ。若い夫婦が経営しているようで、清潔感のある若い女の方が先客に注文された珈琲を出している。先客もまた若い男で、その服装から普通の会社員ではなく、どちらかというと自分に似たような仕事だろうと坂根は値踏みする。
 メニューをざっと見て坂根も珈琲を注文する。
「珈琲をひとつお願いします」
 女が丁寧に奥のキッチンにいる男に注文を通す。すると、それを待っていたかのように先客の男が女に話しかける。
「このお店はいつオープンですか?」
 女がにこやかな笑顔で答える。
「まだ二月しか経っていないんです」
 すると、男がまるで小学校の学芸会のようにわざとらしく店内を見回して、
「なんかすごく落ち着きますよね」
「ありがとうございます。古いお宅をお借りしてるんです。店内は改装させていただいたんですが…」
 その辺にしておけ、と坂根は思うのだが、二人の会話は意外にも弾み、終わりが見えなくなってきた。おかげで、何も話していないのに坂根にはこの店の生い立ち、経営しているのが確かに夫婦で、結婚したのが三年前、旦那がリストラされたのを機会にカフェを始めたのだということも、全部聞かされてしまった。それだけじゃない。旦那の両親がこのカフェをオープンする資金を出してくれたこと、奥さんのお父さんがいまでもカフェに反対していること。そんなこんながたった十数分珈琲を飲んでいる間に、全部わかってしまったのだった。
 早過ぎるよ、と坂根は思う。そういうのは、何度も通いながら、数週間、数ヵ月かけて、少しずつ話していく感じでいいんじゃないか、と坂根は思ってしまう。
 デザイナー臭い先客は途中から坂根が聞いてると言うこともわかった上で、話しているように思えて仕方がない。自分が坂根よりもカフェに通じているということをアピールしたいように見えるのだ。時折、坂根に向けられる視線、同意を求めているように聞こえる語尾の上げ方。すべてが気にくわない。坂根のイライラは次第に募ってくる。この男はどうにもカフェの楽しみ方がわかっていない。いくらカフェというものが、スタッフとの何気ない会話も楽しみの内だといいながら、ここまであからさまに話し込んでしまっては、他に客に迷惑だ。さらに、質問攻めにしてそこから見えてくる真実は日常ではなく非日常的なレポートに等しいじゃないか。
 そんな思いに坂根は内心憤然としているのだが、もちろん、そんな気持ちは表には出さない。それを出してしまうのはカフェという空間には一番似合わないことだと坂根は思っている。あくまでも、カフェという空間を愛するものとして、そして、おそらくは同業である先輩格の男として、毅然として悠然として珈琲をすする。
 大丈夫だ。もう少し待っていれば、この無粋な客はいなくなる、そうすれば、もっとゆったりと店主と会話を交わそう。あからさまな私生活を聞き出すのではなく、この店の行く末やこだわりといった、彼らの「仕事」について言葉のやり取りをしよう。坂根はそう気持ちを引き締める。
 しかし、だ。一時間が経過しても、先客は帰らない。それどころか、先客の仕事仲間が四人来店した。
「お待たせ」
「いやいや、大丈夫。こちら、このカフェの経営者の遠藤さん」
「あ、どうもです」
「こいつらはぼくのデザイン事務所のデザイナーたちです」
「デザイナーだなんてすごいですね」
 店主の奥さんは本気で目を輝かせる。
「いえ、たいしたことないです。一生懸命やってるだけで」
 あっという間に、後からやってきた四人も会話に加わり、さらに楽しそうな雰囲気を醸し出す。互いに挨拶をしたり、名刺交換をしたり。店のホームページを無料で作ってあげましょうなんて話まで出てくる。
 坂根の気持ちがまた揺れ始める。デザインの楽しさを伝えるのはいい。でも、それを無料でやってあげる、なんて安請け合いはプロとしてすべきではない。少なくとも、おれを育ててくれた先輩はそう教えてくれた。いくら安くてもいいから、料金を発生させる。それがプロの心意気だろう。
 坂根はそう心の中で檄を飛ばすが、結局、楽しそうに話はまとまり、今から早速ウェブデザイナーを呼びますよ、なんて話になっている。
 どうやら彼らはこれからどこかの画廊のオープニングパーティに参加するらしい。そこに行く前にカフェに集合しようと、あちらこちらに電話を入れたりメールを打ったりしている。そして、円山町のどこに潜んでいたのか、五分もしないうちに一人、二人と人が集まってくる。結局、十数人が集まり、狭い店内は満席になった。悠然として、毅然としている坂根は自ら相席を申し出て、立ったままでもかまわないという若くオシャレなウェブデザイナーを座らせる。いつもなら、相席などさせないのだが、立ったままでもいいという理由が「立食パーティに慣れているから」というのが引っかかり、無理矢理相席で座らせたのだった。
 こうなったらもうカフェという空間をゆっくり楽しむことは不可能だ。坂根は方向を変えて、カフェももう一つの楽しみである人間観察に専念しようと決めた。
 目の前にいるウェブデザイナーはまだ二十代の前半だろうか。四十を迎える坂根がチノパンにカラーの襟のあるシャツという一昔前のカジュアルを絵に描いたような格好をしているのに、ウェブデザイナーはアンシンメトリーでオシャレなシャツときれいにラインの出るパンツを履きこなしている。
 立食パーティに慣れているというのも、嘘ではないかもしれない。そう思った途端に坂根は手に汗をかいている自分に気付いた。よくよく見れば、ウェブデザイナーだけではなく、他のヤツらもそれぞれに個性的な格好をしていた。
 おそらく、ここにいるなかで、いちばん安い服を身につけているのが自分だろうと坂根は思った。服は値段じゃない。自分に合っているかどうかだと思い直したが、思い直した途端に、つい先月も青いシャツを買おうとして、散々迷ったあげく結局安い方を買ったのだということを思い出した。
 若いウェブデザイナーが楽しそうに他のデザイナー達と話すのを眺めながら、坂根は自分を嫌悪した。こんなシチュエーションは俺の好みじゃない。坂根はそう思った。そして、同時に、坂根はいま抱えている仕事のクライアントから言われた言葉を思い出してしまう。
「坂根さんの好みはどうだっていいんですよ」
 クライアントの広報担当者は、坂根が作ったサムネールを見ながらそう言ったのだった。
「いや、私の好みというわけじゃなく…」
「うちの商品の良さがちゃんと伝わるかどうか。そのためだけにクリエイティブを発揮して欲しいんですよねえ」
 坂根よりも十は年下の担当者はため息混じりにそう言ったのだった。違う、と坂根は言いたかったのだが、その後につながる言葉が見つからずに黙り込むしかなった。
 いつだって話すべき言葉が見つからない。だから、坂根には黙り込んで担当者の要望を一言残らずノートにメモするくらいしか出来ないのだった。こういうことがある度に、グラフィックデザイナーなんて辞めてしまおうと本気で思うのだった。それでも、この仕事を辞めることなんてできないということは坂根自身がいちばんよく知っていた。それは自分が本物のグラフィックデザイナーではないからだ。豊かな才能があって、デザインという仕事を極めた者だけが、「他の仕事を」などという新天地を考えることができるのだと坂根は知っている。
 思い切ってデザイン賞に参加したこともなく、新しいクライアントを求めて営業をしたことさえない。友人が働いていた会社が仕事をくれると言いだして、それをきっかけにたった半年だけ働いたデザイン事務所を辞めて独立したのだった。
 その時の友人がその会社を辞めてからも、運良く仕事だけは継続して、いまに至っている。だからこそ、担当者ともめて命綱のような仕事を失うのが怖いのだ。
 そんなことを考えながら、目の前の若者達を見ていると、最初の勢いは消えて、自分だけがこの場所に似つかわしくない人間のように思えてきた。
 坂根はそそくさと仕事道具の入ったバッグから財布を出すと勘定を支払った。金を受け取り、お釣りを渡すこの店の若い奥さんの視線は、目の前の坂根よりも若いヤツらへと注がれている。まるで自分がここにいないかのようだと坂根は思ったが、それを認めることが嫌で、
「おいしかったですよ」
 などと感想を言ってみるが、
「ありがとうございます」
 と心ここにあらずの返事をされてしまう。
 坂根は逃げるようにして、客席の若者達にも気付かれないように店を出ようとしたのだが、最初からいた男が坂根に会釈する。しかたなく坂根も頭をさげる。なぜ、自分が年下のこの男に頭を下げているのか釈然としない。

 カフェから出て、渋谷にいたのだということを坂根は改めて思い出した。それほど、この一時間ほど、気持ちがざわめいてどこにいるのかさえ忘れるほどだった。
 さあ、どこへ行こう。今日はもう仕事をする気持ちなどなかった。気分転換にもう少し散歩を続けようかと思ったとき、坂根は声をかけられた。
「とりあえず、僕も一緒に行きますよ」
 さっきのウェブデザイナーだった。
「一緒に行くって、どこへ」
 坂根はそう聞いた。聞きながら、ウェブデザイナーが意外に背が低いことに気付いた。そして、仲間から離れて、年上の坂根と正対していることでウェブデザイナーは少し緊張していた。
「えっと、次のパーティも出られるんですよね。みんなは少し打ち合わせがあるっていうんで。僕は道を知らないんで、先に行かれるんなら一緒に連れてっていただこうかと」
 もちろん、坂根はパーティにも出ないし、その場所など欠片も知らない。どうやら、勝手に坂根をヤツらと懇意にしているデザイナーだと思ったらしい。
「あ、場所を知らないんですね」
 坂根の中に、この若いウェブデザイナーに対する妙に底意地の悪い心が芽生えていた。「それじゃ、一緒に行きましょう」
 坂根は自分でも思っていた以上にするりとそう言うと、気持ち胸を張って歩き始めた。
「名前はなんて言うの?」
「立花です」
 坂根の問いにそう答えると、立花はカフェで見せたよりも心細い表情になった。
 坂根は立花のそんな表情を見ただけでもっと困らせてやろうという気持ちになっている。
「お名前はなんとおっしゃいましたっけ」
 今度は立花が聞く。しかし、坂根は答えない。答えないまま歩き続ける。その後も、立花はときおり坂根に話しかけるのだが、坂根は次第に歩く速度を速くする。道玄坂を降りきったあたりで、人通りが激しくなる。人と人の合間を縫って歩いている内に、だんだんと坂根と立花の距離が開くようになった。間が開き、また縮まり、しばらくするとまた遠くなった。
 立花は少し息を切らせながら、坂根を追いかける。坂根は坂根で、歩く速度を上げているのがばれないように、歩いている人たちの合間をうまくすり抜けていく。後ろから見ていた立花は、ふいに姿が見えなくなる坂根を必死で追いかけているような格好になっていた。
 渋谷駅前のスクランブル交差点に差し掛かったときに、ちょうど信号が青に変わった。坂根は斜め斜めに横切りながら、さらに立花との距離を開ける。
 立花は後ろから「待ってください」と声をかける。その声が聞こえないふりをしながら、坂根は振り向きもせずに歩き続ける。声をかけられたことで、坂根は急に自分のしていることが恥ずかしくなる。
 坂根の息は乱れている。人混みの中で足下がおぼつかなくなってくる。不安になって、足下を見ていると、ふいに落ちている子どもの運動靴を見つける。次々と人々が足を踏み出す混雑の中で、すぐに見えなくなってしまったのだが、確かに子どもの運動靴が片方だけ落ちていた。黒と赤でデザインされた小さな運動靴だった。
 その運動靴を見つけた瞬間に、坂根は子どもの頃のことを思い出した。新しい運動靴を買って欲しくて、わざと自分の靴を近所の空き地に捨てたのだった。その時、母親は何も言わずに新しい靴を買ってくれたのだが、それが逆に母親に攻められているように思えた。
 坂根は見失った子どもの運動靴を探した。しかし、前後左右からやってくる人々の行く手を遮るような格好になり、何人かの男達から罵声を浴びせられた。見ず知らずの子どもの運動靴を探しているのか、自分が捨てた運動靴を探しているのかわからなくなった。
「すみません、すみません」
 そう謝りながら、坂根はあちらこちらに押され、転倒しそうになる。それを支えてくれたのは立花だった。
「大丈夫ですか」
 立花は心配そうな表情で、坂根を見つめている。
 坂根は一瞬、どこにいるのかを忘れていたように、じっと立花の顔を眺めた。
「とにかく、信号が変わっちゃうんで、渡っちゃいましょう」
 立花が屈託のない笑顔でそう言った瞬間に信号が赤に変わった。堰き止められていた車が一斉に交差点になだれ込んでくる。
 立花は坂根の腕を取り、走り出す。もたもたとしている二人にクラクションが容赦なく鳴らされる。立花は片手でそんな車に拝むような手つきをして、もう片方の手で坂根の腕を引っ張った。坂根は足をもつれさせるようにしながら、必死で立花の後について走った。ちょうど、信号を渡りきった場所にいた警察官が、警笛を鳴らしながら、二人を手招きして、周囲の車を停止させた。
「さっさと渡りなさい」
 警官は大きな声で二人を促した。あと数歩で歩道に着く、と思った瞬間、立花の手が坂根の腕から離れた。立花が小さく「あっ」と声をあげた。それを聞いて、坂根は「大丈夫だから」と答えた。そして、もう一度、さっきよりも大きな声で「大丈夫だから」と言うと、坂根は全速力で歩道へ走った。立花も歩道に向けて走った。歩道に着いた途端に立花は立ち止まり、息を整えようとしている。坂根はそんな立花の横をすり抜け、そのまま走り続けた。警察官が何か声を発し、警笛まで鳴らしている。それでも、坂根は振り返らずにそのまま表参道のほうへ走り続けた。振り返ると、警察官も立花も追いかけてきてはいなかった。坂根は速度を落とさずに、そのまま走った。もしものことを考えて、小さな路地があれば入り、ビルとビルの間の通路を見つけては走った。
 犬に吠えられ、積みかさねられた段ボールに行く手を阻まれたりしながら、坂根は走った。息が上がり、膝が震えた。持っていたはずのバッグはもうすでに持っていない。通路を走ったときにぶつけたのか、肘からは血が滲んでいる。坂根は走るのをやめて歩き始めた。
 気がつくと、坂根は人通りのまったくない住宅街の真ん中を歩いていて、それがどこなのかわからなかった。
「大丈夫だから」
 坂根は誰もいない住宅街の真ん中でそうつぶやいてみたが、誰が見ても大丈夫な様子ではなかった。そして、別に急ぐことはない、と思いながら坂根は少し気持ちを落ち着かせて、周囲を見渡してみた。小さなマンションの一階にオープンテラスのカフェがあった。いつも行く田舎風のカフェではなく、パリにあるような本格的なカフェを再現したお店だった。
 疲れ切っていた坂根は、とにかく座りたかった。何でもいいから水分がとりたかった。バッグはなくしていたが、ポケットを探ると小銭が何枚か出てきた。五百円玉も混ざっていたので、カフェオレくらいは飲めそうだった。坂根は店のドアを開こうとした。しかし、そこで止めてしまった。
 ドアに映った自分の姿が汗だくであまりにもみすぼらしかったからだ。肘には血が滲み、服は所々汚れ、バッグさえ持っていない。どう見たってカフェにふさわしい格好ではなかった。カフェが好きだからこそ、こんな格好では入れない、坂根はそう思った。

2011/09/27