なぜ、J・M・クッツェーを訳すのか?

くぼたのぞみ

 まだ8月だというのに妙にひんやり、小雨さえぱらつく池袋の、あるスペイン料理店での話。クッツェー三部作『サマータイム、青年時代、少年時代』(インスクリプト刊)をめぐるイベントが終わった打ち上げの席で、隣席の人から質問がきた。
 
 ──くぼたさんは、若いころ音楽でアフリカ系の女性ヴォーカルのもつ生命力や癒す力に惹かれ、それが文学作品に結実したものを80年代初頭に熱心に読み、それからコンデ、ダンティカ、アディーチェ、ウィカムなど、アフリカ系の女性作家の作品を訳してきましたよね。なのに、なぜ、白人の作家であるクッツェーを追いかけてきたんですか? 翻訳する男性作家はクッツェーだけですよね?

 それはイベントの最後に話したかったことで、メモにも書き込んでいたのだ。言いそびれてしまった、と気づいたときには手遅れだった。だから、ワインも入った勢いで、答えることばに力がこもった。

「アフリカ文学」を研究する人たちは、植民地化によってあの大陸で抑圧されたアフリカ人たちに共感する傾向がある。少なくともわたしと同世代まではそうだった。彼ら彼女らの声に耳を澄まし、被抑圧者を代弁する文学を熱心に研究、紹介してきた。欧米中心主義の日本のアカデミズムでは「アフリカ文学」は専門分野として成立しにくい。だから先人の作業の積み重ねと努力には本当に頭が下がる。
「アフリカ文学」をやるそんな困難さを重々承知の上で言うのだけれど、わたし自身が細々とアフリカ系文学の翻訳をしてきた者として言うなら、クッツェーを翻訳することはわたしにとって、彼のような人の視点から世界全体を見なおすレッスンだった。
 つまり、南アフリカという土地に20世紀なかばに、オランダ系白人の家系に生まれたジョン・クッツェーという人間が、ヨーロッパやアメリカとの歴史的関連のなかで自分の立ち位置を見定めていったプロセス、それをわたしはじっくり考えたかった。彼の視座を学ぶ必要があった。わたしが生まれた北海道と日本のメトロポリス東京との位置関係を、世界規模の植民地化の歴史の枠組みのなかで再考してみたかったから。北海道という旧植民地の入植者の末裔である身には、アフリカの被抑圧者側に身を寄せて共感するだけで、ことが済むとは思えなかったのだ。

 スペイン産のフルボディのおいしいワインを飲みながら、イベントが無事に終わった安堵感もあって、そんなことを勢いにまかせてしゃべったような気がする。

 クッツェーという作家は作品内に、歴史の源流まで遡ろうとするベクトルを書き込む。ギリシア・ローマの古典からの引用も多い。ユダヤ・キリスト教文明との絡みも当然出てくる。そんな長いスパンで見た世界史的視点のなかで、偶然ある時期に、偶然ある土地に放り込まれた個別の人間の生を描く。
 この群島の近現代にその枠組みをあてはめるとどうなるか。明治政府が近代化を押し進めた北海道でわたしは生まれ、18歳までそこで暮らした。それ以前は「蝦夷地」と呼ばれた土地を「旧植民地」と再認識する過程に、クッツェー的視点が助けになった。なぜなら、1950年代から60年代にかけて、この国の教育は北海道が旧植民地であったことをまったく教えなかったばかりか、アイヌ民族は滅びた、とまで言ったからだ。その影響はいまも根強く残っている。

 みずからの体験を、アフリカとヨーロッパの関係に対比させながら、歴史的な光のなかに置いてみる。そこに見えてくるものを考え抜くために、クッツェー作品の一行一行、一語一語と格闘した。一度、日本から離れ、個人的な感情の濁りが入り込まない場所で思考し、そこで獲得した視座から、この群島の歴史を見直す必要があったのだ。1988年にズールー民族の叙事詩を四苦八苦しながら訳しているとき、ひょんなことから友人が手渡してくれたペンギン版で、当時売り出し中の『マイケル・K』とういう作品を読み、これ、すごい! 面白い! とやみくもに翻訳し、その10年後に『少年時代』を、それからさらに9年後に『鉄の時代』と訳していく長い時間のなかで、自分の立ち位置を明らかにする作業はゆっくりと、じっくりと進んだ。避けて通れないプロセスだった。ヨーロッパと南アフリカとの関係で考えてみるなら、自分は「ヨーロッパ白人」の位置にあるのではないか。そんな思いから、反アパルトヘイト運動の仲間にクッツェー作品を「なんやシロか!」と言われて絶句しながら、読み、訳しつづけた。

 そこからは、アフリカ系の女性作品に心を寄せるだけでは透視できない視点が浮上するのだ。彼女たちの作品だけ読んでいたのでは、世界全体を俯瞰できない。もちろんジェンダー的にも「人種」的にも真逆のクッツェーは、しかし、わたしにとって避けて通れない道行きへの道案内。若いころ、かのボードレールにさえなってみたのだから、それを思えばなんのことはない。クッツェー自身が作品に深く埋め込む歴史的視点に、自分のなかの暴力性を作品内に徹底的に叩き込もうとする人間クッツェーの倫理性に、強い関心を抱きつづけることは困難などころか、むしろじつにスリリングな経験だったのだ。

 というわけで「自伝的作品」は訳者の重要課題となった。1980年代から90年代にかけてポストモダン、ポストコロニアルといった文脈で理解される「偽装を凝らした」作品を発表してきたこの作家は数年前、ついに、ペーパー類をすべてランサム・センターに譲り、その作品の生成過程に誰もがアプローチできるようにした。作品行為の、手の内を明かし始めたのだ。あたかも作品の「偽装」を剥がしてくれ、と言うように。まだ生きている作家がこれをやったのだ。
 そこに人間クッツェーのある決意が透かし見える。