仙台ネイティブのつぶやき(44) 馬は家族

西大立目祥子

「川渡」と書いて「かわたび」と読む。宮城県北にある鳴子温泉郷の一つに数えられる温泉地だ。いまは田んぼと畑が続くどこか単調な風景が広がっているのだけれど、20年ほど前までは畑のわきに柵が張りめぐらされ2、3頭の馬がたてがみを風になびかせているのを見ることがあった。ここはかつて名だたる馬産地だったのだ。

 その名残は古民家にもあって、最近訪ねた文化庁の登録文化財になっている家では、玄関を開けると大きな土間があり、土間の左手は板の間と座敷、右手は厩(うまや)だったと教えられた。人が食事をする部屋の目と鼻の先に、馬が顔をのぞかせる。こうした農家の造りは、このあたりのほとんどの農家に見られたものだ。馬は農耕を支え、この地域で開かれる馬市の競りに出せば現金収入をもたらす大切な動物だったから、手近なところに飼いならし、そのようすを手にとるようにして見守っていた。

 戦前、すぐ近くの小高い山には陸軍の軍馬補充部があった。毎年春に開かれる馬市はお祭りのようなにぎわいで近郊の農家が2歳馬を連れて集まってきたらしい。軍が買い上げる馬もあったのだろう。田んぼや畑で米や野菜を育てながら、農家は子馬を取り上げ大切に育て売りにきた。当時は競りにかけられた馬のほとんどが売れたと聞く。

 戦後、軍馬補充部は東北大学農学部の農場になり、農業の機械化も進んだから、馬市に買いにくるのは中央競馬会や岩手や山形の競馬会に変わった。20年程前、この地域の最後の馬市を見る機会があった。
 午前中、パドックに集められた馬は歩かせられたり、ゆっくりと走らせられたりする。それを馬主や競馬会の人たちがためつすがめつ眺める。素人には何を見ているのかまったく検討もつかないのだけれど、足のかたちや立ち姿など目利きが特に注意を払う部位があるようだった。

 そして昼。午後の競りの前の1時間、農家の人たちは厩に入れた馬のすぐ前に持ってきたお弁当を広げ、名残惜しそうに昼食をとるのだった。馬が上からそのごはんをのぞき込む。中には小さい子を連れた家族もあって、大切な馬といっしょに最後の食事をとっているように見えた。
 
 この地域で名を馳せた馬といえば、奥州一の宮として知られる塩竈の鹽竃(しおがま)神社の御神馬になった「金龍号」だろう。この馬を育てた高橋恭一さん、奥さんの文子さん、恭一さんの母の貞子さんにいきさつをうかがったことがある。

 昭和53年、高橋家に実に美しい馬が生まれた。文子さんは「この馬何かありそうだと思ったの。顔立ちも本当にきれいだったのね」と振り返る。美しかったのはその模様だ。栗毛色なのに4本の足がハイソックスでもはいたように真っ白。そして鼻筋とあごの下、尾も白。七つ星。大切に見守って2年後の春、「イナリエース」と名づけて市に出すとすぐにいい値で売れたのだったが、数日後馬を買い戻してほしいという連絡が入った。何でもどうしてもこの馬を欲しい人がいるという。それが鹽釜神社だった。

 神社では、何年も御神馬になる馬を探していた。鹽竃神社の御神馬には、体に白の七文の瑞相があること、乗馬や挽き馬に使ったことがないこと、そして2歳馬のときに奉納されること、という厳格な決まりがある。こうした条件は、四代藩主の伊達綱村が御神馬を奉納して以来の伝統といわれている。「馬市のときは前日に馬を展示して見せているから、そこで神社の目にとまったんでしょうね」と恭一さんは話す。
 
 かくして、高橋家の2歳馬も奉納されることが決まったのだが、さぁ、それからが大変。先立って馬の世話係の人があれこれと注意点を聞きにきて、出立のときには厩もいっしょだった茅葺き屋根の家のまわりにお幣束をまわし、花火の打ち上がった奉納式では、高橋家の人たちみんなが神官と巫女さんのような出で立ちで金龍号とともに塩竈中をパレードした。まるで王家に嫁ぐ姫君とその家族のように。
 嫁いでからも毎年、神社の春祭りには金龍号に会いにいった。「だって馬はお里帰りできないからね」と貞子さん。金龍号は長寿を誇り平成19年まで生きた。人間でいうと100歳を越える年齢だった。

 馬はもともと貞子さんと夫の幸雄さんが始めたもので、貞子さん自身もできる限りの愛情を馬に注いできた。何頭もの子馬を生んだ雌馬がお産のあと突然死したときは、残った子馬を生かさねばと母親代わりになって厩に寝て、2時間おきにミルクを飲ませて見守った。タロウと名づけたこの馬が大きくなり市に出したときは「もうかわいそうで、家さ帰って布団かぶって寝てましたわ」と貞子さん。「タロウは鹿児島に行くことが決まってね、ばあちゃんさ便りよこせよ、こづかい送れよっていったのに、いっぺんもきませんわ…(笑)」その口調はやわらかくもちろん冗談なのだけれど、本音がこもっていて馬に注いだ深い愛情がにじみ出てくる。

 そのあと高橋家は馬から手を引いた。「昭和59年に茅葺き屋根の家を壊して、厩を少し離れるところに置くようになってからは何だかうまくいかなくなったの。ケガしたり、病気したりが多くなって」と文子さん。顔をつきあわせて暮らし、呼吸、瞳の輝き、毛並みのかすかな変化への気づきがあったからこそ馬はよく育ったのに違いない。こうした感覚は、目と目を合わせ始終ことばをかける距離感の中でこそつくられるのだろう。馬もあの大きな濡れた目でものをいうのだろうから。家の中に厩を囲い込んだ間取りがいつ頃生まれたのか、興味がわく。