過去の文章を探してみた

大野晋

先月の大久保さんの話を読んで、昔、おかしなことを考えたなあ、と過去の文章を探してみる気になった。ところが、その文章がどこを探しても見つからない。文章を作成したPCはとうの昔になくなっている。掲載された先の機関はもうない。なので、数年前まで残っていたサイトの残骸ももう既に存在しない。では、どこかにプリントアウトしたものがないか?探してみたが、手元の資料から探し出せなかった。ほとほと困り果てて、過去のWebサイトのアーカイブを何年分もさかのぼって、ようやく該当文章にたどりついた。

自分の書いた文章なのに、その文章にたどりつけない。インターネット時代の著作物はこうして消えていく。消えた、いや、存在したことを示せない著作物はないのと同じことだ。現在の著作権は無登録主義だが、登録の必要性はなくとも著作物が消え去れば著作権は消滅したも同然。

さて、探しだした文章はこんなものだったが、果たして探しまわる価値があったのかどうか。

「そもそも、欧米語と日本語では認識の仕方が違うのでは?」

おそらく、筆文字を書かれるT氏ならわかると思いますが、表音を主とする欧米語(代表例:英語)と表形文字を使用する日本語とでは、私たちの言葉の認識に違いがあるように思えます。これは、ワープロの文字変換の過程で気付いたのですが、私たちが手で文字を書く時には文字の形で文章を考えているようです。一方、ワープロ等のかな漢字変換で文章を書く時には、音で文章を考えている気がしています。要は、手(筆)で書く時には文章自体をキャラクタとして認識しながら文章を作成し、ワープロ等で作成する時には、文章を話し言葉と同じプロセスで作成している。(私自身が、文章を書く時に意識してみるとこういう結果になりました。もし、読まれる方で興味がある方がいらしましたら、気をつけて、どのように文章を作っているか見て下さい。)このため、コンピュータのWEBやチャット、会議室という表現手段の上では話し言葉によるコミュニケーションが取られるように思えます。

さて、欧米人や他の表音言語を使用する人種には、そもそも、このような認識の違いが起こりにくい。(ないとは言いません。)なぜならば、言語の認識が視覚によるものと聴覚によるもので異なっていないからです。

で、何が言いたいのかというと、この表形言語を使用する私たちは、知らず知らずのうちに他の種族と違って、視覚による表現、コミュニケーションが発達(というか、欧米人とは違う形になって)しているのではないか。という事です。マンガ、アニメーション、ゲームと私たち日本人が海外に発進してきた文化は、そもそも、他の種族と異なる形に発達してきた私たちの表現形態、要は漢字というものを母体に、物事をデフォルメし、抽象化させる能力が原動力になっているように思えるのです。さて、私も日本語が好きです。しかも、日本語の持つ、字として、文章としての表現力の持っている力がとても好きです。書道という、字や文章をそのまま、視覚表現としてしまえるのは日本語と中国語(朝鮮半島の言葉はハングルオンリーの方向に向かいそうですから)の特権なのではないかとも思います。そして、この日本語の特異性を背景にした情報処理技術が日本から飛び出さないかと期待を持っている次第です。