しもた屋之噺(157)

杉山洋一

日本へもどる機中です。2日ほど東京に滞在し、そのままニューヨークを訪ねる予定です。暖冬にしては珍しく昨夜雪の降ったミラノを後にして、南アルプス辺りまでは地上もよく見えていましたが、スイスの湖沼地域にかかったあたりからぐっと高度を上げ、雲の中に飛び込んでゆきました。

元旦夜明け前、熱川から前回の原稿を送って今までわずか一月の間に、フランスのテロがあり、回教徒の怒りが世界中に伝播し、その直後日本の首相歴訪中のタイミングで、我々もすっかりテロに巻き込まれ、今は囚われの人々が解放されるようにただ祈りながら、これを書いています。

自分は何のために生きていて、何のために音楽をしていて、何のために作曲をし、何のために演奏をするのか。一日毎にますます殺伐とする世相に震えながら、書き留めておかなければ、伝えておかなければと思うことばかりが募ります。自分に残された時間にどれだけ出来るのか、焦燥感にかられているのに気がつきます。

今は各々が自分の人生を、改めて見直すべきときに差し掛かったのかも知れません。本来それぞれの人生に同じ価値があり、喜びがあり、悲しみがあり、意味を持っているに違いありません。それらが平等に与えられているかは分からないのですけれども。

時間は思いの外早く過ぎ、人の生命の駆け抜ける速度も、この歳になって漸くどれだけ早いものか思い知りました。今の自分にとって音楽とは、自分や他人が何かを思い、感じ、伝えようとする切欠に過ぎず、それ自身には何の価値もないけれど、演奏者がそれに命をあたえ、聴くものがそこにまた何かを見出す化学反応を、未だに信じているのかもしれません。随分楽観的だと呆れもするけれど、それすらなくなってしまったら、自分の息子の世代に何を伝えればよいのかわからない気もするのです。

 1月某日
熱川で夜半家族が寝てから水牛を書き、夜明けに書き終え朝に温泉に入って寝る。東京にもどる車中で杜甫の浄書。12月末までに終えるつもりでいてこぼれた。SNSをしていないと、イヴェントに際してメッセージは必要以上に届かない。波多野さんに杜甫のパート譜を送る。「李白の大らかさも好きでしたが、杜甫の湿り気が慕わしかったのを思い出します」。

 1月某日
毎日練習に間に合うかと祈る思いで三善作品の譜読み。新聞に沢井さんとご一緒の写真が載り、休憩中、学生が届けてくれる。響紋の鈴の音、ピアノ協奏曲の緩徐楽章のグロッケン、ヴァイオリン協奏曲のティンパニ、波摘みのチューブラーベル。三善作品の打楽器は、通常オーケストラに要求される演奏法とは全く違うもの。打楽器だけでなく、弦楽器の鬩ぎ合う音すら、恐らく現在の大学生の日常には存在しないようだ。彼らのその音から乖離しているのは、日本が平和で豊かな証拠であって嘆かわしいとは思わない。ただ、それを一つ一つ説明することが、我々の世代の役割であるはずだが、時間が足りないのが口惜しい。自分が大学生の頃は、特に意識しなくとも、現代音楽を弾く時の音には独特の興奮と凄みがあって、どちらかといえば、自分はそこから逃げだしたいと思っていた。品川駅の喫茶店で吉原すみれさんと会ったとき、楽譜に書きつくされていないものを、我々は伝えていかなければならないと話した。我々は一番微妙なハイブリッド世代だとおもう。

 1月某日
沢井さんの演奏会に出向く。沢井さんのための十七絃の作品では、羽ばたく大きな鵠を一羽、手本をなぞりながら自動書記的に何も考えずに描いた。否、鵠を描いたのは、沢井さんなのではないか。音譜は彼女に白鳥を描かせるための仕掛けにすぎない。
言葉とて文字の中は実は伽藍堂なのと一緒で、音楽は自分の中には何もない。
沢井さんは、時に音の中に佇むようにも見えるし、音という予定調和の空間に、鋭利に切り拓いてみせるときもある。かと思えば、彼女の身の廻りは真空のように張りつめ、彼女の身体のなかに音が息づいているように感じることもある。
由紀子さんに「あんなに大きな白鳥を書いて頂いて、彼方できっと喜んでいますよ」と声をかけられ、少しだけ救われた気がする。「でも飛んで行ってしまったわね」と少し寂しそうにおっしゃられた。30年ぶりに大原れいこさんにお会いする。30年前、丁度今の息子の年頃にお世話になったので、傍らの息子をみて大原さんは大喜びしていらした。性格はだいぶ違うが、確かに顔は当時の自分に瓜二つ。
ユージさんの百鬼夜行を本番を含めて3回も見られたのは本当に幸運。見ればみるほど面白いが、今度は音と朗読だけで聴きたい。3回も見れば各々の妖怪も頭に浮かぶに違いない。聴きながら、ユージさんがカンフーを習っていたことを思い出したのは何故だろう。芯に強さと風のようなものを感じたからかもしれない。

 1月某日
世田谷警察にあてた不審メールをうけて、息子の小学校は集団下校。今日の14時、世田谷区のこどもを殺すという。
洗足で大石さんの現代音楽ゼミの演奏を聴き、感銘を受ける。若い演奏家に対して、本当に自然で、そして豊かな音楽に触れる素晴らしい機会を与えていると思う。家人は、彼らと一緒にプラティヤハラ・イヴェントをやり、イヴェントのところでサンドウィッチを作って食べた。大学生は体操をしたり、風船で人形を作ったり。各々の日常はこんな形で反映されるのを一柳さんは当時から見透かしていらしたのかと感嘆。
帰り途、大石くんとシャルリーについて少し話す。イタリアに住んでいるものから見ると「わたしはシャルリー」は、少しだけフランス人のスノッブな部分を見る気がする、と正直に話した。フランス革命によって生まれたかの国において、法の前では誰もが平等であり、自由が保証されていることが誇りなのはよく分かる。でもイタリア人の手に掛かると、それはあくまでも理想論であって、平等だなどとは誰も言わない。イタリアはやはりマキャベリズムの生まれた国であって、理想を謳うより、現実の自らを蔑めて笑い転げるところがある。風刺の視点が少しだけ違う。

 1月某日
昨日は波多野さんと三軒茶屋でお会いして、そのまま味とめでユージさん夫妻と福島君と落ちあう。黒糖を嘗めつつキリタンポ鍋をつつき、サザエの刺身を喰らう仕合わせ。黒糖頂戴と騒いでいたら、わざわざ購いに走って下さった。
朝は自転車で幡ヶ谷に駆けつけ、大井くんのウェーベルンのパッサカリア編曲を聴く。オーケストラで聴くのと違って、ピアノではどうしても増三和音が明快に浮き上がるので、勢いベルクのピアノソナタのように響く。尤も、ベルクのソナタはシェーンベルグの室内交響曲のように聴かれるべきなのだろうし、室内交響曲やこのパッサカリアはベルクのソナタのように奏されるべきではないか、などとつらつら思いながら家に戻り、午後は学校でヴァイオリン協奏曲の変拍子を固め、響紋を少しさらう。
あれ程面倒な変拍子なのに、学生たちの身体に一度入ると、それは活き活きとした律動感に支配され「水を得た魚」という言葉が頭を過るほど。同時に響紋がこれほど論理的に構築されているとは楽譜を改めて勉強するまで知らなかったと内心頭を掻く。
風邪気味なのが気にかかり、帰り途、件の上海料理屋で熱い紹興酒を呷りながら中華そば。

 1月某日
東京からミラノに戻った翌日、早朝の特急でローマに出かけ、初めてMatteo D’amicoに会う。車中、旧い黒人霊歌をあれこれ調べ、O君のための作品の素材を集める。黒人霊歌と米国国歌を絡ませたいのは、先日警官とやりあって死んだエリック・ガーナーが作曲の切っ掛けになっているからで、来月ニューヨークでそんな話をする積りは毛頭ないが、とにかくニューヨークへ行って感じたままを書きたいと思う。白人による人種差別なのか白人の恐怖心の裏返しなのか、数日滞在したとて何が分かるわけではないが、ずっと耳の奥でリフレインしているものを取り除きたい。形のないものが少しずつ姿を顕す。それは人そのものの姿かも知れないし、尊厳であるかも知れない。恐怖であるかも知れないし、現実に目を背け光り輝く天国を謳う霊歌かもしれない。

昨日の学生のオーケストラのドレスリハーサルの最中、エキストラで呼ばれてきているプロの演奏家の私語が酷く、しまいに休符を数え間違えて落ちるに至って堪忍袋の尾が切れる。貴方方は自らの生徒にオーケストラでそのように仕事をするよう教えるのかと問うと、黙って下を向いた。今日はロンバルディア州庁舎で記念演奏会。警備が物々しいのはテロ対策だと言う。近年、日本では自己責任という言葉をよく聞くようになった。個人主義が徹底しているイタリアでは、全てが自己責任であるわけだが、同時に個人の主義主張行動に対して、喩えそれがどのようなものであれ一定の理解を示そうとするところが違う。

 1月某日
学校から家に戻ると、シモーナとステファノがうちに預けていたグリエルモを迎えに来ていた。聞けば、11月に産後一週間で脳出血で亡くなったダニエラは、とても敬虔なカソリックで、毎日教会で祈りを捧げていたという。2年前のある日、息子のダニエレの夢に預言者があらわれ、11月24日に不幸が訪れると告げ、朝起きて泣きながら母親にそれを伝えた。2年経って自身の出産が11月と分かったとき、帝王切開の日程をとにかく24日から外すようダニエラが医師に懇願したのは、生まれてくる息子に不幸が訪れると信じて疑わなかったから。そうして26日が予定日となったものの、直前になって医師の都合で24日に急遽変更されてしまった。ダニエラはとても怯えていたけれど、周りの誰も預言者の夢など気にも留めなかった。無事にガブリエレが生まれて一週間後、彼女は突然頭痛に襲われ還らぬ人となった。
ダニエラの話を聞いたばかりで、今度は親しい作曲のI君が脳出血で入院との便りを受取り言葉を喪う。慌てて今週末、東京に寄る折に見舞うべく弟さんに容体をたずねると、幸い症状は酷くないようで、溜飲を下げた。しかし年末に彼に会ったばかりで俄かには信じられない。次は愈々自分の番かと思ってしまう。

 1月某日
先に演奏会を聴きに行って感銘を受けた洗足の大石くんのゼミの学生さんたちが、「悲しみにくれる女のように」を素材にした拙作を演奏して下さることになり、本当に嬉しい。11月に村田厚生さんと菊池かなえさんによる古典楽器二重奏のために書いたこの曲は、バンショワの原曲と、パレスチナとイスラエルの国歌のみによって作られていて、ガザ地区で死んだ母親の胎内から取り出されたシマーという女の赤ん坊の名前が耳なし芳一のように刻み込まれている。大石くん曰く、学生の多くはまだ選挙にすら行ったことがないかもしれない、でも彼らに何かを考えてもらう切っ掛けにはなるかもしれない。自分の音楽は無価値かもしれないが、せめて何かの役に立って欲しいと願っているから、彼の言葉に心が躍った。パレスチナとイスラエルとどちらが正しいという問題ではなく、ただそこに目を留め、互いの音に耳をそばだて何かを感じて欲しい。5日間しか生きられなかった赤ん坊の名前は、たぶん彼らの裡のほんの片隅にでも残るかも知れないし、残らないかもしれないが、たぶん彼らが演奏するとき、そこに何かが生まれるはずだと信じている。

(1月31日 東京行き機上にて)