しもた屋之噺(140)

杉山洋一

東京に戻ってきました。息子が伊豆から持ち帰ってきた瀕死のクワガタに、砂糖水に与那国の泡盛を垂らして嘗めさせてやると、仰向けで殆ど反応しなかったのが嘘のように生気が戻ってきました。好きなだけ嘗めさせておくと、今度は腰が抜けた放心状態で座り込んだので、泡盛が多すぎたのかもしれませんが、暫くして我に返り、またちびりちびりと美味しそうに嘗めだすあたりに愛嬌が覚えます。外に出たいともがくので放してやりたいのですが、この辺りでクヌギがある場所はどこか、楽譜を広げつつ考え込んでいるところです。

8月某日 ミラノ自宅にて

Rから長いメールが来たので、返事を書く。新曲を勉強するにあたり、初めは全体を読み、それから酷い苦労をして細部を読み、最後にそれらを俯瞰できるところまで持ってゆかなければ、演奏にならない。曲を説明するのでも、アーティキュレーションとダイナミクスを原典に沿って再現するだけでも、音楽にはならない。その後で、俯瞰し自分から全てを剥ぎ取らなければいけない。生徒に調子のいいことを書いて、全てそれらは自分に跳ね返ってくる。俗にいう自業自得。自らの頸を絞める、ともいうらしい。

8月某日 ミラノ路面電車内にて

教師は本来自分が習ったことを弟子に伝えることが務めではなかったか。伝統、伝承、継承などの言葉が、ある時代までの文化を培ってきたことはたしかだ。作曲家と演奏家の分業が進んだからか、啓蒙主義の結果なのか、職業音楽家には世界的なコンクール歴が必要不可欠になった。昔はほんの一握りの才能を認められたものだけが、音楽の英才教育を受け、ひとかどの音楽家として身を立てられるようになるまでパトロンの庇護下に留まっていたのだから、随分状況は違ったとおもう。同時に職業を別にもつアマチュア音楽家は無数にいただろうし、それなりに愉しんでいたのだろうが、そもそもクラシックに関して言えば、最近まで誰でも職業音楽家を目指せるような社会構造ではなかったのだから、万人に職業音楽家への門戸を開いたのが、一つには国際コンクールということになる。当然、教師が生徒をコンクールに入れられる文化を担うことになるのは、理に適っていて却って怖いくらい。恐らく昔からどんな文化でも常に結果や対価を欲していたかとは思うが、これほど性急に求められる時代は、かつてなかっただろう。

8月某日 ヴィニョリ通り喫茶店にて

朝早く散歩をしながら、一千年後の人類はどうしているかと思いを馳せてみる。百年後なら多少は想像もつくが、千年後となると、果たして現在までのように発展し続けているかすら怪しい。自分たちの想像も及ばない所までゆくと、つい「猿の惑星」を思い出したくもなる。今度古希お祝いの演奏会をする池辺先生も、「未来少年コナン」の音楽を書いていらしたなどと考えつつ、一千年後の人の顔を想像する。昭和初期の日本人でさえ写真を見る限り、背格好は今と大分違う。現在までの通り加速度的に変化が進めば、一千年後はかなり変化している筈だし、気候も国も言葉も生活習慣も、恐らく現在と同じものを探すのは皆無かもしれない。春をひさぐ習慣は一千年前からあったのだから、もしかしたら一千年後も残っている気もする。宗教だって、一千年後ともなると、もしかしたら少し怪しいかもしれない。古代ローマ帝国とか、古代エジプト王朝などは、一千年後に自らの建造物が残ることを、かなり強く意識していたのではなかろうか。それが事実残ったわけだから、驚嘆に値する。文化、むしろ文明と呼ぶべきものだろうが、それを残さんとする堅固な意志は、古代人の方が遥かに勝っていたに違いない。

8月某日 自宅にて

自動書記的に作曲する愉しみは、試行錯誤を繰り返した後に、自分の望んでいたところに、音が勝手に並んでゆくのが客観的に見られることだ。この感覚は、子供の頃友達と十円玉を人差し指で押さえてやっていたコックリさんに、少し似ている。神秘的やら霊的なものに興味はないが、欲しい所にストンと文字がはまるところが似ている。今回、サロウィワが殺される直前に書いた声明のアルファベットを、全て七進法に読み替えてリズムやら何やらに使用してみると、一種の疑似言語化が生じる錯覚に陥る。夜半に一人で浄書していると、まるで言葉が浮き出してみえるときもあって、鳥肌が立つ。そのむかし各地で言語から文字が誕生したときも、似たような感覚を覚えたひとも、或いはいたかも知れない。記号が、意味や全く違う存在感を放つ、眩いとまどいのようなもの。

8月某日 自宅にて

浄書がひとつ終わった。小学校のころ学校だか学年の代表に選ばれて、一人だけ山端庸介氏の原爆のスチール写真などを何枚も渡されて、それについて作文を書いた記憶がある。小学校に入学したての頃、クラスに「はだしのゲン」が置いてあり、怖かったけれど全巻読んだ。そうして子供ながらに、自分にとってのアメリカは原爆を落とした国だという、如何ともしがたい不思議な感情だけが残った。自分の国に対しても、特攻隊の話を読むにつけ、上手く言葉に表現できない感情が形成された気がする。子供のころに覚えた皮膚感覚は、確かに理性とは少し別の部分に染み通ってゆくのは、自分だけか。
「近隣各国の反日感情」などと読むと、そこには政治的、歴史的な次元を含め様々な要因が蓄積されていることは十分理解しているけれど、自らの裡に薄く知覚される、このどんよりした気持ちが思い出されて、自己嫌悪すら覚える。アメリカ人は嫌いではないし、韓国人や中国人に対し特に何の感情もないが、アメリカに関しては原爆を落として欲しくなかった国という、理性とは違う感情が頭をもたげてしまう。反日感情と呼ばれるものの幾らかは、もしかしたらこれに近い、ほぼ理不尽な感覚なのかも知れない。

8月某日 空港に向かう特急車内にて

実家にお電話いただいと伝え聞き、久しぶりに増本きく子先生とお電話する。「ここに来て漸く、思うように曲が書けるようになったんでしてね」、と明るい声が受話器の向こうで弾んでいて、とても元気を頂く。あの世代それも滑舌の良い女性の話す、リズムカルな昭和の東京の語彙とイントネーションはとても耳に快い。これは東京弁と呼ぶべきものかは知らないけれど、少しずつ色褪せ失いかけている豊かな文化の片鱗が、言葉のはしばしから溢れている気がする。

(8月26日三軒茶屋にて)