冬のなかで2009年

高橋悠治

『透明迷宮』からはじまり『冬の旅』で 2008年も終わった
『花筺』『なびかひ』『しぬび』は追悼の音楽
柴田南雄の『歌仙一巻「狂句こがらしの」』(1979)の演奏
如月小春によるシアターピース『トロイメラ』作曲と上演
結城座の『破れ傘長庵』の音楽担当で発見したこといくつか
沈黙に点在する いくつかの即興

先の見えない森の小道を 自由への歩みに変える ささやかなこころみ
刻まれる文字をつかうなら カフカやベケットのように
手のうごきにみちびかれて 未知の空間をひらくこともできるだろう
音はその場で消えるもの ひとりのものではなく
にんげんのあいだにあるもの
きっかけをよみ 舵を切る
連句の付けと転じは シュールレアリスムの「妙なる死体」とはちがって
型の自在な運用を必要とした
この場合の型はかたちではない
連句の月の座 花の座も
義太夫の七つユリや ウレヒ三重も
ホメーロス以来の叙事詩的定型句の反復のように「見えるもの」ではなく
場の遠景に佇む見えない力と言おうか
潜在する知識として いったん個人の内部に沈み
空間をきっかけとした表現として 異なるかたちでよみがえる
音楽は「あいだ」のものだから
地図のない道 全体のない部分
座をつなぎ 場をつくるもの
即興とその記録のあいだで どっちつかずにゆれている

1960年代には草月アートセンターがあった
そこを通じてクセナキスにもケージにも出会った
1980年代には 世界はひろく散らばって それでも
遠く離れてはいても 友人たちがいることを知っていた
いまは みんないなくなっていく

音楽は ここにはない
ヘテロフォニーの曼荼羅も 人力コンピュータも
知的退廃にしか見えないが
どこかに 知らないだれかが
まだきいたことのない音楽をつくっているだろう

もう旅はしない
世界の向こう側に行かなくても
内側へおりてゆく井戸がある
時間はさかさにまわりはじめる
未知の過去に未来はある
背後にはひらいた窓がある
そこから出てゆくまで
もうしばらくはここにいる