掠れ書き34 演奏のための作曲

高橋悠治

演奏の場、プログラムと演奏者を、楽器というよりは、思い浮かべなら、そこにまだない音楽を作る。作曲は演奏台本以上のものではなく、音楽は手のとどくところにある。そんなありかたが自然で、その場の音楽は、音楽とは何か、なぜ作るのか、のような普遍的な意味をもたないし、論理でも倫理でも美学でもない。一つの音を置く、次の音を置く、それを続けるだけ。音に順序があるか、重なって層を作るかのちがいはあるだろう。

音を重ねることはいままでにたくさんの試みがあった。和声・対位法から塊としてのノイズまで足し算で。それを演奏するのに多くの人間を必要とし、組織・構成・統制・管理の方向に発展して、経済問題に行き着く音楽がある。蓄積するレパートリーで、もう別な音楽はいらないが、時々はまだ余力があることをみせるために新作初演、であり終演をおこなうオーケストラがある。

室内楽は小さいグループの楽しみではなく、小さいオーケストラと似た組織をもち、レパートリーをもつか、その場限りの集りのために作られ忘れられる音楽を作りだしてきた。

音を順序に並べること、メロディーには、次の音との距離、音程と間の2次元の操作がある。小さなグループの間でなら、音を受け渡すこともある。そこに線の濃淡、音程や楽器のもつ色が自然にあれば、演奏空間のなかでの音の配置と変化が、会話のように音楽を続けていく。音の身体配列が物語を織る。こういうやりかたのほうが好ましい。

ひとりでピアノを弾いていても、左手と右手のちがい、それぞれの指のちがいがあり、和音は同時でなく、すこし崩して、それぞれの音の姿を見せる。くりかえされるリズムも毎回わずかにアクセントをずらして、別な波が生まれる。

音頭取りと全員の呼びかけと応答という古い合唱のかたちがある。リーダーはいらない。フレーズに応答はいらない。答えのない問だけでいい。断片が中断され、別な断片が介入する。中断された断片の続きは、逸れてちがう方向へ曲がる。

多くのものはいらない。意味や理解を押しつける音楽ではなく、問いの歩みに引き込む音楽。