掠れ書き 11(テクストと音楽・・・遅延装置)

高橋悠治

『カフカノート』の作曲を終わって、いったいこんなことでいいのだろうかと思いつつ、しかしリハーサルのコラボレーションから見えるものもあるだろう。机の上にあるノートを読み上げる声は夢のなかで聞こえてきたことばのように続いて思いがけず途切れる、ピアノの音は途切れながらそのまわりに漂っている、ピアノは片手で弾けなければ両手で、または両手が別な時間、別な線でテクストをなぞっていく、声と楽器の線にうごかされてはじまり、中断されては再開される身体のしぐさが第3の線になる。計算された効果や構成ではなく、ゲームの規則のように、3本の色鉛筆をにぎって描く線の束のように、消えていく残像をひきずりながら、どこへいくかわからないまま進んでいく。

カフカの文章は、入眠幻覚のように、書こうとする意志を鎮めて、心身が脱力したときにあらわれるイメージやことばを捉えて、芭蕉がいうように「もののひかり消えぬうちに書き留める」作業が俳句に完結するのではなく、うごきだしたことばが停まるまでひきのばされ、停まりそうになる時には、うごきがそれ自体をコマの緒のように鞭打っても先へ先へと逃げていく。落ちかかってくるものに対しては、まず避ける、それからすこしずつ近づいていく、触れてたしかめる、最後に受け入れる、という複雑な経路、まがりくねった慎重な対応の軌跡が生まれるだろう。

だが、カフカはかなりの速度で書いている。1991年の手稿版でも見られるように、段落は長いし、普通は分割するようなセンテンスも、コンマを打つだけで先を急ぐ。話す速度で書こうとしているようだ。最近の史的批判版では手稿そのもが写真版になっているようだが、その筆跡を見ていると、もしかするとこれは近代の速度なのか、飛行機、未来派、戦争、ファシズム、ダダ、ロボット、ロケット、大虐殺、加速度で転げ落ちる文明に巻き込まれながら、エッシャーのメビウス的階段を這い回る虫のように登れば登るほどじつは落ちている、息を切らしたバスター・キートンの石の顔がヨーゼフ・Kの顔と二重写しになって、ではこれは不条理な運命に巻き込まれた人間の悲劇なのか、またはちょっとしたことにありもしない兆しを読み取る自縛自縄の喜劇なのか、それともほとんど書かれた人物と密着しながらその側ではなく「世界の側に」立つことばで追いつめていく判決文なのか、おそらくそのどれでもありうるし、だがどれとも言い切れない、ことばを紙に書いている、文字通りペンで紙の表面をひっかきながら、ペンはひっかからずに流れるインクの跡を残しながらうごいていく、それについていく手と、そのことばで書かれた限りで姿を見せ、紙から手が離れた後は失踪する主体は、一人称で書かれていても書いている手とおなじではない。書かれた人物が経験するできごと、物語も、書いている手のうごきの影にすぎないとするならば、書く手の感じていることばの手触り、手が書くことばを通して聞こえてくるだれのでもない声の途切れない響きの変化が、鏡のこちら側にある作者の存在で、といっても、それは作者の生活や経験や知識というより、それらの堆積が環境となってある時あるリズムと抑揚のあいまいな輪郭がうごきだし、それをことばとして聞き出し、聞き出したことばがことばを呼ぶうちにそれらの関係がつくられ、その網目の中でうごきまわるエネルギーがめぐりながら関係を複雑にしていき、共鳴によってことばの揺らぎが大きくなり、拡散して、こんどはその拡散するエネルギーそのものが、ある境界のなかでそれ自体を抑制する方向に向かい、やがてそれ以上の推進力を失って収束に向かう、このプロセスは一回性のもので、二度とおなじようには起こらない。書かれたことばやそこに見え隠れする人物や物語は、創造プロセスの痕跡、外側から観察され、さまざまに解釈されるてがかりにすぎないが、そのプロセスは、意味や解釈、分析などではなくて、別な身体がなぞる声の線によってずれをもった別な振動となった共振が読む側に波及する。

書く手が残した文字を日本語という別な言語に移し替えること、ちがう歴史のなかで造られてきた言語のなかから、一対一で対応する単語からはじめてセンテンスを組み立てていくならば、翻訳以前に解釈があり、翻訳の文体があり、解釈された意味に沿ってあらわれてくる別な風景がある。途切れながら続く声からはじめれば、単語は後回しで、まず呼吸の長さであるパラグラフ、呼吸をさまざまな響きで彩る声のリズムと、抑揚の輪郭のメロディーを、別な言語の響きを使ってなぞっていく作業がある。知的に理解しようとするか、生理的に同調しようとするかのちがいだが、どちらも外側からの観察の結果であることはかわらない。後のアプローチをとる理由は、これが眼で読む文字ではなくて、声のパフォーマンスのための台本であることによる。聞こえてくる声の速度とそれを書く手の速度、書かれたノートを読みあげる速度はみんなちがうし、読みあげる場合はその空間によってさまざまになるが、内部の声から文字、ふたたび声になって劇場空間へと移るにつれて速度は遅くなっていく。そこに音楽がからみつき、別な身体のしぐさを見る時間が加われば、もっと遅くなるだろう。しかも紙の上の文字とちがって読み返すことはできない。声も音もしぐさも知覚された時にはもう過ぎ去り、消えている。「ことばを横切る光の名残」があるだけ。劇場という遅延装置 delay のなかで夢のなかの声は過去へと飛び去っていく。