掠れ書き36

高橋悠治

音楽は何かを主張するのには向かないようだ。音はことばのようにそのものが意味をもつよりは、使われる場や慣習から意味を帯びることがある。聞くとイメージが浮かぶような音楽なら、ある目的のために使うこともできるだろう。雰囲気をつくったり、リズムを整えるための音楽がある。そうではなくて、偶然に窓を開けると見えるできごとのように、どこからか聞こえてくる音楽、どこにもないそれをすこしずつ形にしていく作業。

音がもうそこにある。その音が次の音を呼び入れる。何だかわからないまま、その動きが自然で、よけいな意図なしにすすんでいるあいだはいい。その動きがいつか停まる。そこで止めて、音楽から離れる。断片以上ではない。でも無理強いはよそう。

中断の後でそこにもどって再開できることもある。それでも、途切れたところには小さな溝が残る、呼吸のように。

中断した個所にもどれず、ちがう断片がはじまってしまうかもしれない。そんな作業を重ねて、後には断片の堆積が残る。断片は何かの一部だから断片と言えるのか。断片があれば、それを含む全体があるのだろうか。それとも断片の集まりそのものが、何もつけたさなくても、全体と呼ばれるのだろうか。

断片が、かつて存在した全体の一部と仮定すれば、復元する努力が、過去の回想を再構成する。そこでは断片それぞれの輝きや暗さが均されて、不器用に繋ぎ合わされた壊れやすい模造品にならないか。

断片が断片のままでいられるような、隙間だらけの、音楽で言えば、意味のない沈黙で区切られた、未完成な感じが残るほうが、それぞれの断片の響きの余韻が表現のように思えるかもしれない。

ここしばらく拍のない音楽を書いていた。全音符を長い音、あるいは句点とし、4分音符を短い音、あるいは動線とし、16分音符を早い音、あるいは抑揚とする。これは17世紀フランスではダングルベールやジャケ・ドラ・ゲールの書きかたに近い。崩された和音と即興的な線を区別する。ルイ・クープランは全音符だけの白い楽譜で、生前出版されなかったから自分だけのメモだとも言われる。これらは名人芸の即興的なスタイルと言えるだろう。ケージの晩年ナンバー・ピースにはいろいろな書法があるが、全音符だけで書かれ、時間枠の幅のなかで、たまたま同時になった音の響きが和声とされる。ここでは時間のない空間に散らばる星のような音楽になる。

3種類の音符で書くかわりに、すべてを全音符で書いてみようか。書かれているのは音の高さと順序、それに弧線が各音の終わりを示すか、数個の音のグループを束ねる。崩された和音や偶然の同期ではなく、音が集まって停滞する場所と流れている区域で作られる音楽。構成や予定調和(harmonia)からではなく、聞き取られた想像の響きと流れにしたがいながら、それを紙に書くという間接性、あるいは遅延装置を通して実現する場合には、名人芸のような慣習を排除するほうがいいだろう。「こどもの無償の遊び」と形容されるような、あるいは凍った水面を歩くような、探りながらの一歩、先が見えない曲がった道がある。

と言っても、思うような楽譜はなかなかできない。コンピュータの楽譜制作ソフトは19世紀音楽の慣習に合わせて作られている。プログラムされてないことをさせると混乱するらしい。ソフトをだましながら書いていく。しかし定着しようとした瞬間に崩れて慣習にもどってしまうこともある。作業はもっと遅くなる。

思い通りにいかなければ発見があるというのは後付の理由だろうが、思い通りに進む作業を続けるうちに、理論で組み立てたように予想可能なプロセスに陥っているのではないか、と気がかりになる。

自分の手や喉を使って、どこからか聞こえてくる音についていくだけなら、たどたどしい途切れがちの即興にしか聞こえないかもしれないが、その中間に書きとめる作業をはさむと、速記のように速くできたとしても、やはりずれや遅れだけでなく、気づかない誤認や誤記があるだろう。それでも書くためには規則やスタイルがある。書いていくと、それらもいつの間にか踏み越えられ、あとで見なおすと、あいまいな書きかたや、説明できない個所がそのままになっている。

音の高さと順序が書かれていても、音の終わりは弧線だけではあいまいだし、グルーピングを示す弧線とおなじ記号だからまちがいやすい。ましな書きかたがあるかもしれないが、はっきり書かないでその場で決めたほうがいいこともある。

次の音までの時間は、演奏の場でその時にしか決められない。リズムや拍に乗ってどんどん進むのではなく、ロバのように立ち止まりがちの音を次の音へひきずっていく呼吸が、流れの緩急となるのだろう。それと同時に強弱もそこで決まる。

リズム・パターンや拍ではなく、進む力と抵抗が、綱引きのように緊張と遊びをくりかえし、やがて対称性が破れる。