掠れ書き(1)

高橋悠治

掠れ書きは飛白体。飛び散る余白。

音楽は現場のもの。すぎさるもの。即興といってもいい。しかし即興は自己主張ではない。内側にある自己を取り出して押し付けるのとは逆に、世界のなか、歴史のなかで、自分の置かれた位置から逸れて、うごきだすために、自分の外側にあって、問いかけ、対話するもの。カフカのように、自分の側でなく、世界の側に立つ人間には、帰る場所がない。

即興する身体を他人のように見ること。危険な水路で舵を切るように身体をあやつって、かすかな風のうごきに沿って、見えない道を辿ること。過ぎてゆく時間を読みなおして、未来へと後退すること。

身体をテクストとして読みなおし、テクストを身体として組み直すことの両方によって、その場限りの消費でもなく、テクストの死化粧でもない、生きた劇場が生まれるだろうか。

1950年代以来の音楽が通ってきた道の意味はすでに失われた。ブーレーズもシュトックハウゼンも自らをシステム化し制度化してきた。ケージやクセナキスもいまや楽譜や音響だけが分析され、説明されている。どこにもなかった新しい音をもとめた冒険も、技術化され、プログラミングされ、だれにでも売りつけられるソフトウェアになってしまったが、さまざまに曲がりくねった探求のプロセスはかえって見えにくくなった。分析や説明からはなにも生まれない。

クセナキスの例をとれば、1950年代の『メタスタシス』や『ピソプラクタ』のように、いままでの拍節や半音の合理主義的な枠組みから解放された音の運動は新鮮でもあり、そしてギリシャの岩山や荒れる海、政治的暴力の記録でもあった。確率計算や群論は、自由なうごきを創りだすためのてがかりにすぎなかった。だが、方法が理論化され精緻になるとともに、音響組織そのものが一つの暴力に変っていく。技術としてとらえれば、それに挑戦する演奏家もいるし、複雑な音楽語法を制御する作曲家も現れる。だが、それは音符と方法への隷属で、音の解放ではないし、それを通じての音楽家の自己変革でもない。技術は上がり、創造性は下がる。

正弦波の組合せによる初期のセリエル的な電子音楽を、有限を積み重ねて無限に達しようとするピュタゴラス主義だと非難したクセナキスの音階理論も、アリストクセノスの不均等で変動する単位による音階論を、均等な単位に固定してしまったし、リズムの細分化や微分音による複雑な楽譜は、かえって演奏者を束縛するものでしかない。その結果、作曲家の見かけの優位とその背後にある音楽の社会的制度は変ることがない。西洋近代の数の呪いがいまだはたらいているかのようだ。

クセナキスの音楽を救うのは、理論や方法ではなく、かれの音響の暴力性ではないだろうか。夕霧のように翳り、昆虫のように軋り、地震のように震動する音の複雑な絡まり、またギリシャ悲劇の、心理や情感のかげりのない無情な声、それらは偽りの平和が覆うことのできない、この世界の現実でありつづける。

いまになって、19世紀以来の構成されシステム化された音楽がやっと終わり、自由な個人と組織の多様性にもとづく演奏が復権してきた。作られた音楽史とは逆に、流動する世界では、まず聴き手が変化する。現場にいる演奏者が新しい聴き手に応えて、ちがう音楽のつくりかたを考える。それとしてほとんど意識されないかもしれないが、それは演奏者の身体をつくりなおすところからはじまる変化の兆し、散乱する予感のきらめきとして現れる。取り残されているのは、かたまってしまった思想と制度によりかかっている、公認された演奏家や作曲家たち、その権威にぶらさがっている選ばれた若者たち。スポーツのように技術をきそい、あるいは個性的な装いだけを考えている若い音楽家は、その先に何かがあると思っているのだろうか。