キーボードの演奏

高橋悠治

ピアノを弾くことは いままでの生活手段でもあった こどもの頃は きまりきった練習がいやで 新しい音をさがして 現代音楽を自己流に弾いていた 学校やオペラ歌手とのつきあいの後に また現代音楽のピアニストになったとき 最初に弾いたのはボ・ニルソン(1937-)「クヴァンティテーテン」(1957)だった ニルソンは1歳年上のスウェーデンの作曲家で その曲は3年前に書かれたばかりだった 1960年のことだから 50年前になる

それから武満徹や松平頼暁の曲を弾き 一柳慧と出会い 日本に来たケージとクセナキスに会い 作曲もまたはじめて 1963年には西ベルリンに行った ヨーロッパでも現代音楽のピアニストはすくなかった 同年のフレデリック・ジェフスキーがケージやシュトックハウゼンを弾いていた こちらはケージ クセナキス メシアン ブーレーズなどを弾いていた 1966年にアメリカに行ってからも 現代音楽が主で プログラムの一部に古い曲を入れていた

1972年に日本にもどってからしばらくは おなじようにしていたが だんだんクラシックが多くなり 新しい曲は弾かなくなった ひとびとは おなじ音楽をくりかえし聞くのが好きらしく それでさえヨーロッパ人の演奏の安上がりな代用品としてしか評価されない その裏側には ヨーロッパ人のオリエンタリズムに媚びる輸出向けジャポニカや オリンピックのように金メダルをもらった安全な国産品に群れる無意識の排外主義がある みんなが評価するものを自分も評価する というよりは みんなが好きだろうと推測されるものを自分も好きになるように努力する集団主義と権威主義が何世紀ものあいだに身についたのか 自分でも知らないうちにそういう気分になっているか どうせ何をやってもムダだと思うか どちらにしても ひととちがうことをやりにくい環境で それは変えられないだろう どのみち「みんなのため」はだれのためでもない 抽象的な権力に奉仕するだけだ 多数の独裁にまともに抵抗することよりは 選ばれなかった「少数」が 分散し 多彩な活動をつづける可能性に賭ける

こういう場所でハキム・ベイの言うTAZ(一時的自律領域)を点滅させるやりかた むかしクセナキスからまなんだことの一つは 条件をつけ返すことだった すべてを受け入れてはいけない できるところから部分的に変えていく もう一つは ひとつのやりかたを押し通せば壁にぶつかる 行き止まりの路を直進するよりは 一つ後退すれば そこにちがう曲がり角がある 後ろ向きに未来へすすむ これはベンヤミンの歴史の天使という言いかたもできるし 根底からやりなおす とまではいかなくても どこかにもどって再開すれば ちがう軌道に逸れていく オートポイエーシスが構造的ドリフトと呼ぶものもこれに近い

クセナキスの曲を演奏するなかでまなんだこともいくつかある 「ヘルマ」と「エオンタ」では 楽譜は音響空間の見取り図を比率と近似で表したものにすぎないこと 個々の音符やピッチではなく 全体の肌理と色彩が問題で それはいままでのハーモニーに替わる位相空間の運動であること メロディのように線的に継続するのではなく 色彩変化が複数の層をつくって同時進行していること 「エヴリアリ」と「シナファイ」では 連続するピッチをメロディとしてではなく ちがう層にあらわれる近接した色彩点とするために リズムをわずかに揺らして ずれと断層をつくること これはポリフォニーに替わる「メドゥーサの髪」

このようなピアノ奏法で たとえばバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を弾いてみれば チェンバロの和音や多声部の伝統的な崩しかたと似たような結果がでてくるが それは情感にもとづく名人芸とはかかわりがない 1930年以後の音符がすべてのようなデジタルなスタイルに慣れた耳には これはバッハの解体のように聞こえるかもしれないが コントロールをゆるめて うごきを解放し そこに何が起こるか見ようとするなかで 不安定で不均衡な運動が 知っているはずの音楽から知らない響きをとりだす 

keyは鍵 槍の刃かに由来するという説もある 溝をつける 切り裂く 開く 説明する という系列と 鍵をまわして閉める 一つにまとめる という系列にわかれる 調という音楽的な用法では 関係全体の性格をいう

楽器のkeyboardはkeyの並ぶ板 keyを押すことによって複数の音を操作する楽器音源に直接手を触れないかわり 操作は一様で安定している 音を大量に速くあつかえるが 操作法は限られている そうなると 一つの音の始まりから終わりまでの変化ではなく 音の関係の配分が演奏の技術になるが どちらの場合も 複雑で予想も設定もできない部分がある キーボード支配は 中心からの操作統制の代名詞だが焦点をずらして それを逆転させる可能性もある 

楽譜に書けるような粗雑な次元ではなく ある部分におこる運動の波紋がひろがるような 偶然の共鳴から拡散する撹乱が 停まらずにつづくように 最少限の介入をして 起こる変化についてゆく 変化を先取りすることもできないし そのプロセスを支配したり誘導することも完璧にはできない というより コントロールからこぼれた部分が 二度とくりかえせない発見になる 変化のプロセスが停まれば 音楽も終わる 終わった音楽は 作品となって閉じるかもしれない 書かれた音をくりかえし演奏しても 毎回なにかちがうことが起こっている あるいは 毎回発見がない反復は 習慣になる 変化はカオスのなかに解放される アナーキーは無秩序ではなく 自律と相互関係の網の一時的秩序 たえず打ち寄せては退く波