音楽すること

高橋悠治

まデイヴィッド・グレイバーの出るシンポジウムをききにいった 資本主義ももう長くない すべてを監視するセキュリティー装置は高くつく いらない商品をますます大量に作り 売れなければ 先物買いをする すべてが負債でうごいている 権力は要求を拒否し それができなくなると部分的に取り込み それでもたりなければ戦争を起こして注意をそらす というようなことをひとりで笑いながら言っていたが それが日本語に翻訳されると おなじ話もどこか暗くまじめで笑えないものに変わっていた 

ベトナム戦争中の1968年はたしかに世界を変えた 制度も一枚岩の反体制も信用されなくなった しかし運動自体は継続できなかった まだ非日常的で コミューンの日々が終わり 日常がもどってくると 解体し 消えていった 反逆は制度に部分的にとりこまれ 回収された 日常のなかでの革命は それでもすこしずつすすんでいた 権力や公認された位置をもとめない女たちや先住民のなかに 1989年から2001年の頃 社会をうごかす大きな流れになってまたあらわれた時は 非中枢 非権力 非統一の考えかたがうけいれられるようになっていた それでもアフガニスタンやイラクの戦争が起こる グレイバーの考えでは それはアメリカ人の注意を権力からそらすための戦争だったということになるが それでは殺されたイラク人たちは犠牲の羊ということか

先月書いたことのつづきだが 「すでにないもの」の記憶 と「まだない」夢とのあいだにゆれている「いま」の半透明のスクリーンに映るはためく翼の重ね書きのずれた線の束が ここをすぎていったかたちのないうごきの軌跡となって 不安定にゆらぎつづけるのが音楽ならば ざわめくひびきをつくりだす息づかいや指先は 外側から見える書かれた楽譜や 結果としての音の分析からではなく ひとつではない複数の身体の内部運動とそれらを顧みる内部感覚が途絶えずに「音楽している」プロセスを支えているということが 音楽がつづいているあいだは 声や楽器や演奏者をききわけながら 音楽の内側で音楽として生きられ 経験されている 音楽がやむと この全体は失われ 音がうごきまわっていた空間も 跡形もない 「いま」は記憶と夢に回収され 語ることばは 音楽にとどかない 記号としての音楽 表象としての音楽ではない 記憶であり夢である創造のプロセスを手放さないでいれば 音楽は世界とつながっている 歴史 文化の伝統 政治 社会 自然 それらのなかで「音楽する」ことは ひとつの交換であり 世界をともに感じる生きかたでもあるだろう

20世紀の音楽は 設計図にしたがって 部品を集めて組み立て みがきあげた機械のように 中心や統一や構成に支配されていたし 産業化し 技術化し 商品化して回収されるものだった 作曲家と演奏家と聴衆は 資本家と労働者と消費者のようなヒエラルキーを崩せないで 新しさをもとめる作曲家は 不要な商品をつくりつづける資本家のように 無目的な開発と理解されない悩みのあいだで 道はないが進まねばならないと自分をなぐさめるばかりだった 冒険や発見を否定したり 後もどりはできないし 回収された技術は 音楽を古い規則から自由にしたこともたしかだ 創造の場のヒエラルキーをこわすやりかたはあるだろう 生産と消費 あるいは理論と実践のような産業的科学的なたとえでなく 音をきく 音楽をする という行為の共有から生まれてくるもの さまざまな場 状況 条件のなかで変化しながら維持される活動を反省しながら確実なものにし 人びとのあいだへとひらいていく方向があるはずだ