真夏のように照りつける太陽にぐんぐん気温が上がる日曜日に洗濯をしないでいることはできません。まだ届くかもしれない原稿をふたつほど待つあいだにと洗濯機を回しはじめました。ところが、ちょっとした拍子に脱水機の蓋がしまらなくなり、二層式の我が家の洗濯機は、そうなると脱水できません。なんとかしめると次には自力で開いていることができなくなりました。留め金のようなものが脱落したのでしょうか。長くつかってきたので寿命かもしれません。この二槽式が壊れたら、ドラム式にしようかと考えていましたが、協議の結果、また二層式にしようということに。
「水牛のように」を2014年6月号に更新しました。
仲宗根浩さんが「こちら」というのは沖縄本島のこと、平野公子さんが「島」というのは小豆島のことです。
藤井貞和さんの詩のおかしさはどこからくるのでしょうか、くつくつと笑いながらも考えさせられます。マブイで思い出すのは池上永一『あたしのマブイ見ませんでしたか』と『バガージマヌパナス』です。マブイをなくしたりとりもどしたり、若い女の子とユタである80代のおばあさんとの友情も沖縄であるからこそ成り立つ物語だと感じましたが、こんなインタビューを読むと、そのことがよくわかります。
「小説は書く気がなかったんだけれど、ちょこちょこって書いてみたら、うわーっと広がっていって。自分が見たかった沖縄が、青い空が見えたんです。沖縄の青い空をずっと見たかったけれど、反戦のイデオロギーで見ていたし、沖縄をコンプレックスで見るように教育されていたから、青いと分かっていたけれど青に感動がない。でも書いてみたら、記憶が鮮明になったんです。あのときこう感じたかった、ということを取り戻した。そうしたら、これもあれもそれも...と蘇ってきて、体と記憶が元に戻った。当時、沖縄文学というと反戦文学で、そのバイアスにみんな引っ張られていたんだけれど、離れてやっと沖縄の海と空を見て、自分の生まれたところはこんなにきれいだったんだと思えた。」(作家の読書道より)
さて、くぼたのぞみさんの22年ぶりの詩集『記憶のゆきを踏んで』が完成しました。発行は水牛、発売はインスクリプトです。くぼたさんの翻訳でやはりインスクリプトから少し遅れて発売になるクッツエーの三部作『サマータイム、青年時代、少年時代──辺境からの三つの〈自伝〉』と深く結びついたものです。詩はみな「水牛のように」に掲載されたもので、詩集にまとめたいという話はだいぶ前に出ていたのです。震災がおきて、最初の計画を変更せざるをえず、また少し時がたちました。その時間のなかで考えてきたことがごくふつうの詩集のかたちそのものにも反映されていると思います。
今週末には書店にもならぶ予定ですが、部数が少ないので、どこでも手に入るというわけにはいかないでしょう。ネット販売もあるはずですから、ぜひ検索してみてください。
「高橋悠治50人のためのコンサート6 〜夢のたたかい」も予約中です。イワトでのシリーズのさらなる続きです。マーケットから自由になり、そのときどきにやりたいことをためしてみる。聞いてくださいというよりは、立ち会ってくださいとお誘いするのがふさわしいかもしれません。自由席ですし、前売りの特典もありませんが、出来るだけサイトから予約をお願いします。
それではまた!(八巻美恵)