2003年の年末から2004年1月末、約1カ月ほどの時間をかけて、鶴見幸代の合唱曲のために『縞縞』という詩を書いた。字面的にはヨーロッパとアメリカと日本の通貨をならべた詩だ。自分だけではおそらく書かない種類の作品だったので、鶴見幸代が声を掛けてくれたことに感謝している。また、この詩を書くことを通じて、多和田葉子の文章を読むようになったことも刺激的なことだった。
それにはいくつか事情がある。2003年12月28日に豊田市美術館で、『宥密法』のクロージング・イベントとして、私とさかいれいしう、豊田市美術館の学芸員・都筑氏の3人で、2時間半にわたるパフォーマンスを行った。それが終わってから、美術館の方と話をした際に、パフォーマンスをみていて、多和田葉子の朗読パフォーマンスを思い出したと言われたのだった(未だ、多和田葉子のパフォーマンの詳細をしらないので、どうしてなのかはよく分かっていないのだが......)。作家の存在は、もちろん知っていたが、読んだことはなかった。大学生のときに、古典の授業で『犬婿入り』を読むことを勧められたけれど、どうせ民俗的な翻案の小説なのだろうと思って読まなかったことを思い出す。豊田から帰宅して、偶然、兄から多和田葉子の『容疑者の夜行列車』を「いらないから」ともらった。
ドイツ在住で、ドイツ語と日本語で小説を書きわけている作家だという事実から、勝手にハードで重厚な内容を想像し、すぐには本を開かなかった。だが、読み始めると、あまりといえばあまりに軽くて読みやすい文体で驚いた(軽薄と言うことではなくて、意図的に軽い、つまり戦略的な文体だからなのだと思う)。一人称の語りなのに「あなた」という言いまわしで、よそよそしい独白が、読者と主人公と筆者とそれぞれの間に客観的(であるかのよう)な距離間をうみだして展開する(後半で「あなた」と語ることになった起源譚も出てくる)。
内容は、ユーラシア大陸をあっちに行ったりこっちに行ったり鉄道で移動する話の断章からなる。展開のある物語ではなく、それぞれが独立した話。主人公は舞踏家だが、公演地から公演地へと移動する。はっきりいって、たんにこの移動についてだけの話(むかしに放浪した時代の話もある)。ある意味で、書くこと=語ること自体が目的で、書き=語るために移動していると思えてすらくる。この作品が何かの賞を受賞したときに、審査員のひとりが「この小説は夢の話で云々」と言ったそうだが、私は、その話を聴くまでこの小説が夢の話とは思わなかった。もちろん真偽はわからない。幻想譚めいてはいるが、寓話的とも思わなかった。私は、これまでに知らない種類のリアルに触れた気がしていた。
第一話に「パリへ」というタイトルの、夜汽車でハンブルクからパリへ向かう話がある。途中、ストライキで汽車が止まる。フランス語を話す相手にフランス・フランでチップを払うと、相手が逃げるように去っていった。そして、やがて汽車の替わりにバスが来てそれに乗る。すると、国境がみえてくる! 「あなた」は、いままでいた場所がベルギーだったと気づく。ベルギーもフランスも、フランス語を話し、通貨はフランだが、その価値はかなり違う。「あなた」は「大金を払」ってしまったのだった。ちなみに1ユーロは、6.55957フランス・フラン=40.3399ベルギー・フランだった。これは、ユーロ以前のヨーロッパで起こりうる勘違いで、要するに悪い冗談なのだろう。そこに普遍的なリアルがある。
今どき日本から出たことがない私は、これを読んだころ、理屈で『縞縞』に通貨の単位を使うことを考えていた。しかし、ユーロという統一通貨と従来の通貨(ユーロからみれば地域通貨ということになる)の関係から、文化や普遍性について語れるということに、リアルな実感がなかったのだ。多和田葉子の小説を読んで、夜汽車でユーラシア大陸を彷徨し、通貨という視点から考えることに確信が持てたのだった。その他にもとにかく、多和田葉子の小説、エッセイを読んで考えさせらることが、いろいろあるのだが、それはまた稿を改めたい。文体の問題やら、語り口の問題で気になることがいろいろあるし、普遍性の考え方や、言語観等々、興味は尽きない。初期の作品のいくつかには、母語の外で暮らす違和感を表明した作品があり、それはそれでたしかに面白い(『犬婿入り』も違和感の表明だ。また『ペルソナ』や『アルファベットの傷口』の中によみとれる悪意は読んでる方がほんとに痛い気持ちになってくる)。また、ある時期以降は、違和感の表明のしかたが物語的ではなく、もっと駄洒落的な展開になっていくように思われる。つまり、文章が、文字通りの意味とは遊離して、音響から拡げられていくところがあったりする。これが微妙に篠原資明的だったり、藤井貞和的だったりと、詩的な展開で面白い。