親父たちの暮らし

さて、イブラヒム父さんがファートマと我が家にやってきたが、親父たちの期待を裏切って、ファートマは外泊がつづく。おやじ3人でいてもわびしいので、別の家に預けられているまだ一歳にならない双子を見に行くことにした。この子達は、最初から親切なヨルダン人に面倒を見てもらっているのでイブラヒムを父さんと認識していないかもしれない。預かっているほうの一家も子どもが7人もいて、大変なのだが、よく面倒を見てくれる。

2ヶ月もたてばずいぶんと赤ちゃんは大きくなるものである。赤ちゃんたちをあやしているとなんとなく、ぷーんとくさいにおいがする。これは、ウンチかなと思ったが気のせいだった。

男ばかり3人で暮らしているのを哀れに思ったのか、晩御飯を持たせてくれた。ここのところ外食ばかり、どうしてもファーストフードになってしまいどうしたものかと思っていた。最近、NGOからスローフードのキャンペーンに協力するように頼まれたので、本を読んで勉強を始めたところだった。家に帰ってなべを開けてみると「マンサフ」という家庭料理。羊肉をこってりとヨーグルトで煮込んである、まさにスローフード。ところがこれがくっさい。ウンチかと思ったのはこのにおいだ。私は食べる前からうっとなってしまった。イブラヒム父さんは、「どうして食べないんだ。おいしいぞ」という。井下おやじは少し食べていた。私はこのにおいがどうしてもだめなので昼間買って置いたカップラーメンを食うことにした。

カップラーメンは3分でできるので、マンサフをお皿に入れている間にもできてしまう。口でスローフードというのは簡単だが、実践するのは簡単ではない。結局のこりは明日、ブンジローに食べてもらうことになった。ブンジローは、日本人には珍しくマンサフが好物なのだ。

あくる朝、私は、乗り合いタクシーで国境を越えてシリアに行くことになっていた。まもなくヨルダン、イラクの国境も開くそうなので、私がシリアに行っている間に、イブラヒム親子もイラクへ帰ってしまうかもしれなかった。そうなると今度はいつ彼らに会えるかわからないから、お別れを言うために早めにヨルダンにもどることにしたのだ。3日後ヨルダンに戻ってくると、イブラヒムとファートマはまだいた。そして、「マンサフ」もまだ残っている。

ブンジローは、留守中にたずねてきたそうだが、井下親父がマンサフを嫌がり、外の中華料理を食べに行ったということだった。こうなるとちょっと触るのが怖くなったので、後始末はイブラヒムに任せることにしたが、イブラヒムは捨てるのを惜しがって食べようとしていた。一緒にもらったパンもカビが生えているのだが、イブラヒムは目が悪くてカビが見えず、食べようとするので、「やめなさい」と諭した。

井下親父は「実は、イブラヒムは、まったくイラクに帰る気がないみたいですよ。どうしましょうかね」という。
「なんとなくいつまでいるか聞いてみよう」ということになった。
「イブラヒムさん。イラクにはいつ帰るのかね」
「今のイラクは危険でしょうがない。できたらヨルダンにいたい。あるいは、日本に連れて行ってもらえないだろうか。なにか仕事はないか」という。
「しごとねぇ」
「私は数学の先生だから数学を教えたいのだが」
「日本人は、日本語しか通じないよ」
「じゃあ、アラブ料理を作る」
「それなら、いいかもしれないね」

しかし、あくる朝、イブラヒムは、指に包帯を巻いている。どうしたのかと聞くと、「実は卵をきっていたら指を切ってしまった。痛い。痛い。ドクター見てくれ」
イブラヒムは一生懸命傷口を井下親父に見せているが、ぜんぜんたいした傷ではないのだ。
これじゃあ、コックになんかなれない。

そこで、私は、井下親父とまた話し合った。
「やっぱり数学の先生しかないだろう。イラクから治療を受けに来ている子供たちは学校にも通えないというから、彼らの家庭教師として派遣するのはどうかね」ということになり、イブラヒム先生の算数教室がはじまったのだった。