しもた屋之噺(58)

ミラノに引っ越して今日でちょうど一週間が経ちます。住んでいるのはミラノの南にあるポルタ・ジェノヴァ駅からアレッサンドリアへ伸びるローカル線に面したロフトで、友人の建築家のフェラーリが元来あった工場の側面をそのまま生かして作った一見コッテージ風な建物です。まだ台所も完成していないので、取り敢えずは携帯ガスコンロと電子レンジで料理を見繕い、一昨日テレコムが工事に来て見ると、新居にはまだテレコムの回線が引いてないというので、あわてて昨日既に回線がひいてある別の電話会社に契約に出かけたりして、なるほど新生活を始めるというのは、煩瑣なことがずいぶん沢山たまっているものだと妙に感心させられます。

イタリアの生活には馴れているし、10年以上前に初めてイタリアに住み始めたとき、文字通り何もない生活から始めて今に至るので、ある程度肝が据わっていますが、10年間住んだブリアンツァを捨てて、初めてミラノに住むというのは、なんとも不思議な気がします。この家は通りからずいぶん奥へ入ったところにあって、ボルガッツィ通りに面していたモンツァの家に比べれば遥かに静かな環境で、ここがミラノなのを忘れてしまいそうですが、家を出てジャンベッリーノ通りまで出れば、街の喧騒にびっくりするほどです。

引越しの最中、合唱の清書が佳境に入っていて、荷造りを放り出して、ダンボールにまみれながら五線紙に向かっていました。他の練習やら本番やらに追われていると、なかなか自分の作品に頭が切替わらないのと、朝9時から、酷いときは夜の11時まで実質10時間以上も練習した後では、体力的にも自分の作曲にかかる気力が残らないものです。イタリア人が怠け者というのは、ただの逸話に過ぎないと憎憎しく思いながら、それでも譜読みが間に合わず、休憩時間には楽譜に齧りついていたりするわけです。そうして本番が終ってみると、ヨーイチは疲れを知らないなどと妙に感心されたりして、少々虚しい思いにかられたりもします。こういう時、作曲と演奏を兼業している人たちのことを、心から尊敬しますが、不器用な人間は尊敬したところで器用に時間と頭が使えるわけでもなく、本当に困ります。昨日もスキャンした合唱の清書譜を友人宅からメールで送ってみると、次の作品の入稿の催促のメールが届いていて、来月以降の本番の譜読みが頭を過ぎって少々気が滅入ってきました。

さて、とにかくこの原稿を送ったら、この週末は家の家具つくりに専心することにいたします。ちょうど今しがた新しい電話会社から連絡があって来週初めに工事が来るそうですし、来月原稿を書く頃までには、それなりに人間らしい生活が成立していることを祈るばかりです。

(9月29日ミラノにて)