複数の人が一緒に踊るとき、たぶん私たちのほとんどは全員の動きが揃っている点をとても評価する。バレエやミュージカル、ラインダンスなどで、大勢の踊り手が一糸乱れずに踊っているさまを見るのは壮観だし、そこに美しさを感じる。けれど、揃っているのが美しいというのはある1つの価値観であって、絶対的なものではない。
バレエやミュージカルやラインダンスなどには、振付家という全体を統括する人がいる。画家が一点透視法を用いて画面に絵を描いていくように、振付家は、自分の目という一点を基準にして、大勢の踊り手を額縁舞台の中にデザインしてゆく。踊り手の動きは1つに揃えられ、個々の面貌が消されて、最後には1つの線として配置される。そうしたときに初めて別の美しさが見えてくる。それが全員が揃っている美しさ、なのだ。
そういう視線が1970年代にジャワ・スラカルタの伝統舞踊界にも持ち込まれた。アカデミー(ASKI、現在の国立芸大)の学長で、かつ中部ジャワ芸術発展プロジェクト(PKJT、1969~1981)の長も兼任していたゲンドン・フマルダニという人が、西洋芸術の概念を持ち込んで伝統舞踊改革を推し進めた。それは一言で言えば伝統舞踊の舞台芸術化で、その中でもPKJTの一番の特徴が、複数の人で踊る演目(特に女性舞踊)で全員の動きを一糸乱れぬように揃えたことなのだ。当時それは驚異的で新鮮で、一般の人たち、特に若い層の心をとらえたのだが、その一方で、舞踊関係者からはロボットみたいだという批判も受けていた。
この「揃っている動き」の発見は、当然ながら「群舞」という概念の発見と表裏一体の関係にある。フマルダニは1960~62年に欧米に留学してモダン・ダンスやバレエも学んでいる。そしてイギリスではバレエを見た感想を書き残しているのだが、そこには、空間におけるバレエの線のすばらしさと、ジャワ舞踊ではたとえ複数の人が一緒に踊っていても、それは単独で踊っている人が集まっているだけなのだ、という気づきが書かれている。この舞踊の線というのは明らかにコール・ド・バレエの人たちの軌跡を指していて、フマルダニ自身も群舞という概念を言い表すのにコール・ド・バレエという語をよく使っている。
しかし、フマルダニがコール・ド・バレエの概念をジャワ宮廷舞踊の演目(特に儀礼性の高い女性舞踊)にまで当てはめたのは間違いだった、と私は思う。確かに元来のジャワ宮廷舞踊には単独舞踊の演目はなく、複数(4人とか9人)で踊るものばかりだ。それに皆同じ衣装を着て、同じ振付を踊る。しかし、だからと言って、彼女らは群舞(コール・ド・バレエ)だと言えるのだろうか? たとえば、やはり宮廷の式学である舞楽も皆同じ衣装を着て同じ振付を踊るけれど(4人で踊るものなんかは、宮廷舞踊のスリンピととても似ている)、あれを私たちは誰も、コール・ド・バレエみたいなものだとは思わないだろう。ジャワ宮廷舞踊や舞楽の踊り手は、コール・ド・バレエのように、他の何か(主役)を引き立てるために背景化された存在ではない。舞台には彼らしかおらず、彼ら自身が「世界」、あるいは「宇宙」を代表している。舞楽の方は知らないけれど、ジャワの女性宮廷舞踊の踊り手には、各ポジションに「頭」、「首」、「胸」などという名前がついていて、つまりはそれぞれに意味がある存在なのだ。
一糸乱れぬ動きを、フマルダニは踊り手たちに毎日長時間の練習を課すことで、可能にした。全員の動きを経過点ごとに揃えて、手で布を払ったり、引きずっている裾を足で蹴り払うタイミングまで揃えていった。だから当時の踊り手=今の芸大の先生たち、とくに女性の先生たちは、全員の動きをいかに揃えられるかという点に練習の意義や達成度を見出す。女性舞踊にそれが顕著なのは女性舞踊の方が一緒に踊る人数が多いのと、それからやはり公演機会が多かったからだと思う。
私はかつて芸大の先生たちと一緒に公演したことがあって、来月もそのメンバーと一緒に公演することになっているのだが、この全員で揃えようという志向の強さには参ってしまう。今度の公演は私がスポンサーなので、とにかく、全員の動きは揃える必要がない、昔の宮廷舞踊のように個々の舞踊を踊ってください、と強く要望している。それでも先生たちは、「1人だけ動きが違ったら、間違えたと思われて嫌だ」と言う。他の人と揃わないということを、なんだかとても恐れるのだ。私としても、「むしろ古い上演の仕方として、あえて全員の動きを揃えてしまわないようにした」ということを、司会の方から言ってもらわないといけないなと思っている。
ジャワの音楽や舞踊にはウィレタンwiletanという語があって、個々の演奏家や踊り手の間で微妙に異なる個人様式のことを言う。過去の有名な踊り手は皆それぞれ独自のウィレタンを持っている。そういう単語があるということからも分かるように、各人でウィレタンが違うのはむしろ当たり前なのだが、先生たちのウィレタンに対する態度はこうだ。Aという公演ではaというウィレタンでいきましょう、とか、振付のこの部分はaというウィレタンだけど、あの部分ではbにしましょう、とかいう具合に、いろんなウィレタンをメニュー化しておいて、その中から1つ選んで揃えるのである。確かに芸大という所にはいろんな調査レポートがあるので、先生たちはいろんなウィレタンを知っている。私はウィレタンというのは踊り手の人格と一致した時におのずとにじみ出てくるもの、あるいは個々の踊り手がアイデンティティをかけて追求するものだと思うのだが、先生たちは、いろんなウィレタンをとっかえひっかえ使い分られることにプライドがあるみたいで、自分の個性にあったウィレタンを追求しようという姿勢があんまり見られない。(本当は、そういう意識がない、とまで言ってしまいたいぐらいだ。)そしてそれはたぶん、全体で揃えましょうという志向の高さと裏表の関係にある。
こういう具合だから、4人で踊るスリンピで、私と3人の芸大の先生が踊ると、当然私だけが揃っていないということになる。このことは以前の公演でも観客から指摘されてきたのだが、しかし上手下手は別として、私の舞踊の方がよりクラシックに見えるとも、何人もの人に評された。皆で揃えようという意識が私にはないのだが、それはつまり観客に見せようという意識が乏しいのだ。そういう観客へのサービス精神がないという点が、とてもクラシックな舞踊と映るらしい。来月(26日)の公演がどうなるか分からないが、また来月か再来月にその結果を書いてみたいと思う。