幾何学と音楽(2)

ギリシャ・ローマ期の間に、すでに発達していた線遠近法の技法を、ある意味で打ち破ったビザンティンの絵画は、自然の外のありもしないひとつの視点から、神のように静止してみる描き方を嫌った。彼らは逆に、神が自然の中のあちらこちらを、逍遥し、眺め渡したかのような逆遠近法の絵画を描いた。ヨーロッパ中世の絵画を担う技法でもあったことから、しばしば野蛮な技法のごとく記述されることもある逆遠近法は、実は、線遠近法の「神に対する不遜さ」に気づいた人々によって、あみだされたのだった。

逆遠近法のもうひとつの意味は、記号学者、ボリス・ウスペンスキーがいうような、人が実際に「在る」空間の体験である(ボリス・ウスペンスキー『イコンの記号学』 新時代社 1983)。画面の内側ではなく、外側の超越的一点から、事物を見る線遠近法の作者は、そこからのみ見える視角に固執することになる。その一点に不動の姿勢で立つ人間が中心点となり、そこから二次元平面である画面を、幾何学的な空間として見うるように、線遠近法絵画は描かれている。

それに対して逆遠近法の作者は、その絵画の中に入り込んでしまう。入り込んだ作者は、そこで様々な場所、様々な視覚から事物に触れ、そこにある空間の全体のなかで、事物がどのように多様的に見えるかというより、「在るか」に注意を向ける。個別の事物が、絵画の外側の在る一点からどのように見えるかが、コピー=写実されるのではなく、その事物の空間内における在り方が多角的に示されるのだ。そうして描かれた絵画の中で、個個の個物は、確かにある一点から写実的に見えているようには見えない。だが、そこではそれら「事物が在る空間」が、その内側から、全体として体験されている。絵画は、それを描く人がその中に埋もれている空間として、見られるというより、体験されるのだ。

完全な逆遠近法というわけではないが、日本の絵画の特徴とみなされている俯瞰視も、最初は西欧的な逆遠近法との関係で、研究がなされた(熊代荘蓬「東洋画の逆遠近法に関する観察」『画説』61号 国書刊行会 1942など)。絵画の外ではなく、内側の空間の中に入り込んで、その空間を体験するような画法である。西欧的な俯瞰視との違いは、観察視点が特定できず、どの視点から眺めたのか想定できない(というよりむしろ、視点が多様に動いていく)ところにある。視点は、描かれるものの動きに従って、様々なところに自由に動いていく。絵画の外側の超越的な一点から描く線遠近法とは、まったく異なる感性が、ここにはある。絵の中の景観は、外部からではなく、絵画の中の人物、画中をさまよう人から見られた景観である。

観察視点が揺れ動く俯瞰視と水平視とが混在したその空間は、認知論的には、目に映るイメージよりも心的イメージを伝える絵画技法として、このごろ注目され出している(山田憲政「動く襖絵―日本の伝統的空間認識」栗山茂久・北澤一利共編『近代日本の身体感覚』 青弓社 2004所収)。それは幾何学的というより、心理学的に描かれた、絵画の空間認識だといえよう。

音と人とが偶然出会うことから始まるような作曲のあり方は、こうした非幾何学的絵画のあり方と、似ているところがある。人は自然の中で移ろい、多様な音空間に出会う。音空間は人を包み、人はその中に埋もれる。
音空間に埋もれながら、更に人は移ろい、多様な音の多様な相を体験する。いくつかの音空間は重合し、それらは人の動きにつれて、様々な位相を示す。そうした音空間もまた移ろっていき、聴こえたり消え去ったりしながら、人と多様な関係を取り結ぶ。そこでは音たちは、外側から予め幾何学的に順序だてられる対象というより、音空間の内側で移ろう人が、たまたま出会っていく存在である。

たとえ時間と共に幾何学的に順序だてて奏でられた音であっても、認知論的に考える限り、その音空間の重なりや動きは、順序どおりに認識されるとは限らない。音の群れを外部から、予め幾何学的に透視して、その位置を定め、役割を割り振っても、音の認知は必ずしもそのようになるとは限らないのだ。
心的イメージの中で、音達がずれたり重なり合ったりして、多様な記憶の空間を形作っていくことを、わたしたちはすでに過去の音楽体験の中で、経験してきている。凝縮した時間の中に浮かぶウエーベルンやフェルドマンの音楽は、幾何学的に順序良く整序された音楽記憶の空間とは、およそ異質の心的イメージとして、私たちの想像力の内に鳴り響く。

様々な繰り返しの音楽や、レゲエなどのリズムも、人の想像力のなかで移ろい、重なり合って、人を音空間の重合の中に埋もれさせる。ひょっとしたら、そこにおいてさえ予め定められてあったかもしれない幾何学的なそれぞれの音の位置と役割は、記憶の空間の中で、どこかに消え去り、心的イメージとして、その認知論的意味を失っていくのである。

それに替わって想像力を占めるのは、予め定めてあったこととは別の、聴くことの中から組み合わされ、創造される心的イメージだ。幾何学的に透視されていたかもしれないイメージや見取り図からは、思いもよらないような心的イメージが、想像力の中にひろがっていく。音楽を聴くことが、テーマや形式を探し当てることではなくなるような、音楽の在り方、音との関係のあり方を探っていって、たどり着くひとつの始まりの地点に、私たちはいる。