本当は11月26日に行った公演のことについて書きたかったのだけれど、その公演の前にインフォーマントだった師匠を亡くした。それで、今回はまずは追悼の文を書き残しておきたい。
師の名はSri Sutjiati Djoko Soehardjoといい、ブ・ジョコ(ブは女性に対する尊称)と呼ばれていた。亡くなったのは11月8日(水)20:10で、その前日昼に容態が急変して入院した。2003年4月、私が留学を終えて帰国した1、2ヵ月後に、最初にストローク(とインドネシアで呼んでいる、脳梗塞?)倒れて入院し、今年の3月に2度目の入院をしていた。最初に倒れたときのことは「水牛」2003年10月号に「舞踊とリハビリ」として書いている。このときブ・ジョコはかなり回復して、ゆっくりながらも歩き、言葉も話せるようになっていた。2003年の夏、2004年の夏、2005年の夏と私はインドネシアに調査に行き、ソロに滞在している間はブ・ジョコの家のプンドポ(表の広間)で練習させてもらい、そのときはブ・先生もプンドポまで出てきて、横で私の一人練習を見てくれていた。
2度目に倒れて入院するしばらく前に、私は偶然ブ・ジョコに電話し、助成金が取れたので今年の8月からインドネシアに行き、先生に習ったスリンピ・ブドヨの調査研究を続けるのだと伝えていた。先生が亡くなったあと、その息子が語ったことなのだが、ブ・ジョコはこのときにかなり深刻な容態になり、8月に私が来るまでは到底もつまいと思っていたそうである。師は私が来るのを待っていてくれたのだろうか。
今年8月に来たとき、ブ・ジョコが意外にも元気なのに私は驚いてしまった。歩くスピードはむしろ以前より速くなっていたし、顔の色艶もとても良い。ただ声はほとんど言葉にならなくなっていて、私や他の人がその声の真意をはかりかねていると、とてももどかしげな表情になるのだった。それでも私は時にはなんとなく先生の家に遊びに行き、プンドポで一人練習したり、先生のベッドの横にあるテレビで昔撮ったビデオを見たり、また単にテレビドラマを見たりしてすごす時間を作っていた。先生の家は灯が消えたように寂しくなっていた。以前は、私をはじめ大勢の留学生らが舞踊を学びに来ていて、プンドポには音楽の絶える間がなかったのに。先生はいつもプンドポを自分で箒がけして、私たちがやって来るのを待ってくれていたのに。今プンドポは、その中央の4本の柱の間(ここで舞踊が踊られる)にも応接セットがおかれていて、誰もここで踊る人がいないのは明らかだった。
10月25、26日はレバラン(断食明け大祭)で、一族で最年長のブ・ジョコの家に皆が集まるのが習慣だった。私も遊びにいって先生に断食明けの挨拶をした。先生は新しくおろしたオレンジ色の服を来て化粧もし、私は何気なく先生とその長女と3人で写真を撮った。このあと先生はにこやかに子供、孫をはじめ一族、たぶん30人以上いたと思う、の挨拶を受け、元気そのものだった。
11月7日昼に入院した時、さっそく病院に駆けつけたのだけれど、そのときはまだブ・ジョコはICUで治療を受けていて、私はおろか家族の誰もその中に入れなかった。夜に再び来た時、もうICU入室が許されているからといって、先生の妹さんがICU室に導いてくれた。先生はそのときずっと目を開けていた。妹さんが、「三智が来ましたよ」とブ・ジョコに声をかけてくれた。私には先生が何を見ているのか、聴覚がまだ残っているのかも分からなかったが、11月26日の公演、その前の録音の練習が順調に進んでいて、ぜひ先生にも公演を見てもらいたいのだと声に出して伝えた。後で聞いたところでは、先生の末の娘さんが昼に入室したとき、先生はふと微笑して、パチャ・グル(舞踊で首を動かすしぐさ)をしたのだという。それは一瞬のできごとで、そのときには意識はもうなかったはずなのに、先生は確かに踊っているとしか思えなかったという。
11月8日夜8時過ぎ、先生が亡くなった時間、私は芸大大学院長のスパンガ氏の家のプンドポにいた。私は今度の公演で、ここで練習している芸大の先生たちやおじさんたちに演奏してもらうことになっていた。公演前に行う録音では、ついでに先生が振付けた作品「クスモ・アジ」の曲も録音しておこうと思って、この日初めて練習していたところだった。練習しているときにスパンガ氏がプンドポに出てくるのが見え、終わると私を手招きした。「重要な話があるんだが・・・」とスパンガ氏が切り出したとき、私はてっきり録音費用についての話だと思っていたので、わざとにこやかに「あらー、なんですか?」と切り替えした。それがブ・ジョコの訃報だったので、私はフリーズしてしまった。昨日病院にお見舞いに行きながら、私はブ・ジョコがこんなにすぐに亡くなると思っていなかったのだった。そうしているうちに芸術高校からもブ・ジョコの訃報を伝える使者がやってきた。ブ・ジョコはなにしろ芸術高校の1期生として学び、その後教員となって定年まで勤め上げ、多くの芸術家を育てた人だから、芸術高校は電話であちこち連絡するだけでなく、主な関係先には使者を立てたのだった。私たちはそこでいったん練習を中断し、使者の人が先導して皆でお祈りをささげた。
その後、公演演目であるスリンピの練習をはじめたのだが、結局その日は私も他の踊り手も心ここにあらずだったらしい。踊っていると、ブ・ジョコに習ったことのあれこれがいろいろと思い出されてくる。それに、この夜は雨季に入って本格的に雨が降った最初の夜だった。ものすごい土砂降りと雷雨で、たいていの地域で停電した。この雨もブ・ジョコの死を悼んでのことだったのだろうか。私も、そしてブ・ジョコの子供たちにとっても、この雨はブ・ジョコが安らかに神に召された験(しるし)のように思われた。そしてちょうどブ・ジョコの亡くなったときに私がその作品を練習していたということも、遺族はそのような験の1つとして受け止めてくれたようだった。
この夜私は練習を終えてから12時過ぎにブ・ジョコの家に駆けつけ、通夜をした。亡きがらはプンドポの奥のダレムと呼ばれるスペースに、バティック(ジャワ更紗)にくるまれて安置されていた。表の方では近所の人たちによって明日の葬式の準備が進められている。ダレムでは続々集まってきた遺族がそのまま雑魚寝している。私は明け方の5時にいったん家に戻って水浴びをし、服を着替えて朝8時にもう一度ブ・ジョコの家に行った。そのときに最後のマンディ(水浴び)をさせるのだという。日本で言えば湯灌だろうか。先生の亡がらは先生の娘2人と妹に抱きかかえられて清められ、その後イスラムの白い装束にすっぽりくるまれて、棺おけに安置された。そして確か12時過ぎから告別式が始まり、2時に墓地に埋葬された。
これから公演しようというときに、その公演のインフォーマントのブ・ジョコを亡くしたことは、私にはこたえた。もっと早くに先生に成長した姿を見せるべきであったのに。けれども、先生はもしかしたら、もう私の手を離しても良いと思ってくれたのかも知れなかった。あとは一人でその道を進みなさいということなのだろうか。先生はいつも「舞踊教師が教えられるのはマテリアル(演目)だけなのです」と言っていた。どのように踊るのかは先生ではなくて生徒が自らが探求すべきことだとブ・ジョコは考えていた。いつだったか、ブ・ジョコに「どうして先生はスリンピ、ブドヨを必死で習得したのですか」と聞いたことがある。宮廷舞踊のスリンピ、ブドヨは1969年から始まったPKJT(中部ジャワ芸術発展プロジェクト)の一環で初めて一般公開されたのだが、多くの演目を習得し書き残している人はほとんどいないというのが実情なのだ。そのときのブ・ジョコの答えは、「もう私には舅(1972年に亡くなった宮廷舞踊家クスモケソウォ。ブ・ジョコはクスモケソウォの助手をずっと勤めていた。)がいない。もう甘えずに、自立しなければいけないと思ったのよ。舞踊教師として私は宮廷舞踊を伝えなければいけないと思ったの。」というものだった。私はそれまで、ブ・ジョコは単に宮廷舞踊tが好きだから伝承してきたのだと思っていたのだが、自分の道をそこに見出していたのだった。そしてよく考えてみたら、ブ・ジョコが偉大な舅を亡くしたのは今の私くらいの年齢の時なのだった。私ももう甘えられる年ではなくなったのだな、これからは一人なんだな、ということを感じながら、私は11月26日の公演に臨もうとしている。