南インドは、なんとなくアジアの気配がする。はじめてチェンナイ(旧マドラス)の街に一歩踏み出したとたん、ここはアジアだ、と感じた。ここよりもアジア地域に隣接しているバングラデシュでは濃厚なインド世界なのに、南インドでは、いくつかの町を旅したが、どこもゆるゆるとした独特のやさしさが漂っていた。
なにがアジア世界で何がインド世界なのかと聞かれても困るが、チェンナイの町を歩いたり、オートリクシャで出かけたりするときの気分が、ほとんどなじみのアジアの町バンコクにいるときのようなのである。ふしぎにすぐに町になじんで、リラックスしてしまった。
もともと南インドは紀元前からドラヴィタ族の国で、北部のアーリア系の住民とはかなり違う。ドラヴィタ族をはじめインドの先住民族たちは、かなりアジアっぽい人々だったのではないかと思う。色は黒く、背はあまり高くなく、顔つきは丸くてくしゃっとしていたはずである。南ではそういうタイプの顔の人が多い。こういう顔つきのおじさんが、雑貨屋で袋など見ていると「どこから来たの?」とにっこり笑ってくれたりする。
チェンナイから50キロほど南のマーマッラプラムという小さな町には、BC700年ぐらいに作られた磨崖彫刻がたくさんあり、のびやかな造形の神様や牛や民の姿が岩山の壁面にいまも残されている。このまち以外にも古い遺跡はこのあたりに多い。
マーマッラプラムには海岸に「海岸寺院」という遺跡があり、波の高い激しい海に向かって建っている。この7世紀に立てられた海岸寺院が向かっている海のずーっと向こうには、アンダマン・ニコバル諸島があり、その向こうにはマレー半島がある。マラッカ海峡を越えてインドシナ半島、さらに中国まで、アラブやインドの人々が渡って交易していたのは、何も15世紀や16世紀のヨーロッパの進出を待つまでもなく、かなり古代から行われていたらしい。
インドシナ半島の東側一帯は、北部をのぞいて2世紀ごろから15世紀ぐらいまでチャム族の国、チャンパ王国だった。彼らは海洋民族といわれ、交易・海賊で財をなし、そのほか絹織物や稲作、陶器、灌漑など高い技術と文化を持っていた。チャム族は、南インドから移住してきたという説もある。
古代チャンパ王国のミーソン遺跡群は現在のベトナム中部ホイアンの近くにある、チャム族の宗教的聖地だった場所である。ここは山に囲まれた静謐な場所で、その地に立てば、チャム族が聖地に選んだのもすぐに納得できるような神々しさに満ちている。
ミーソンの歴史は4世紀から13世紀にわたる。ベトナム戦争でかなり破壊されてしまったが、今も残るれんがの建物たちは多くがヒンドゥー様式の寺院で、インドの影響を強く受けている。アンコールワット遺跡群がこのチャム族の建造物を真似て、いや参考にしていることは一目瞭然だ。ベト族がほろぼしたチャム族の、その遺跡を世界遺産としてベトナムがいま、一生懸命修復保存に努めているのもなんだか皮肉なものではあるが、ベトナムでは文句なく一番すばらしい遺跡群であろう。
マーマッラプラムの海岸で、チャム族のルーツはこの海岸地方かも......などと妄想にふけっているとおなかが空いてきた。さっそく食堂に入り、南インドの名物料理だというマサラドーサを注文した。そのマサラドーサが出てきて、本当に驚いた。うわさには聞いていたが、レンズマメの粉で作ったパンケーキがこんな形で出てくるとは。
それは直径が50センチはあろうかという巨大なパンケーキで、それをくるりとまいて太い筒状にしてあり、中にカレー味のじゃがいものマッシュが入っていた。もちろんバナナの葉っぱをしいた皿から大きくはみ出している。ほかに2種類ほどのカレーソースのようなものとヨーグルトがついている。
味の方はというと、なかなかふしぎな味である。なるほど豆の粉から作った、といわれればそういう味がするかも。中のカレーじゃがいもはおいしい。もちろん、どの店でも巨大なロール状のものを出すわけではない。ドーサというのがプレーンタイプで、チャパティやナンのように焼いたものをちぎってカレーソースにつけて食べたりもする。
もうひとつカレー文化の国では珍しい食べ物に、イドゥリというのがあった。こちらは米好きな南インドらしく、米粉を発酵させてつくる蒸しケーキのような饅頭のようなものである。もっともレンズマメ粉でつくるものもあるらしい。米好きな上に豆も好きなのね。これの上にカレーソースをかけて軽食とするのだが、これも少しクセがある。見た目は白い蒸しパンなのだが、粉を発酵させているのが独特の風味を生んでいるのだ。こちらはあまり好きになれなかった。
南インドの主食はやはり、なんといっても米飯で、白いごはんにカレーを混ぜて食べる。北ではターリーと呼ばれる定食が、こちらではミールスと呼ばれて、ステンレスの皿やバナナの葉っぱの中央に白いごはん、そしてその回りに何種類ものカレー、ダール豆スープ、生野菜を刻んだサラダ、ヨーグルトなどが一緒に盛られて出てくる。鶏肉を炊き込んだビリヤーニもおいしい。
もう少し南のポンディシェリーは、海岸沿いのうつくしい町で、イギリスがインドを植民地化していく中、最後までフランスが手放さなかった町のひとつである。精神修業のアシュラムが数多くあり、国際的な共同体オーロヴィル(これも巨大なアシュラムのような存在)も郊外にあり、町には少し謹厳な雰囲気も漂っている。
なにせ、泊まったゲストハウスはあとから気がついたのだが、そのオーロヴンド・アシュラム系列の経営で、受付でまず、門限は22時、ホテル敷地内での飲酒・喫煙・麻薬は禁止、これらを守れない人は宿泊できません。と書いてあるものを読まされ、同意すると部屋をくれるのである。この宿は、海岸沿いでどの部屋からも海が見え、広い庭があるというので選んだのだが、部屋に入るとオーロヴィルの創立者オーロヴンド夫妻のアップ写真がどーんと飾ってあるので、やっとアシュラムの経営だと気がついた。厳しいはずである。
一緒に行った若い友人たちは、酒もタバコもたしなむ方だったので、けっこう苦労したようである。酒は外で食事のときに飲み、また部屋でこっそり飲んでも分かりはしないが、タバコの煙は吸わない人間にはすぐ分かる。部屋で吸うわけにはいかない。環境も部屋もすばらしいので、何泊もしたのだが、その間どうしていたのかというと、スモーカーたちは門限時間直前になると、いそいで門のところに行き、門の外で何服かして、おもむろに門を閉める門番の合図で中に入っていたという。他の白人旅行社も何人かスモーカーがいて、門のところはけっこう国際的に賑わっていたようだ。門番のおじさんはもちろんスモーカーで、すっかりツーカーだったようである。
ホテルの海に面した美しい芝生の庭には茶色い猫が住んでいた。ふだんはあまり愛想がよくなかったが、テイクアウトの食べ物を持っているときと、雨の日にだけ擦り寄ってきた。雨の日には寒かったらしく、部屋までついてきた。ちゃっかりとサンドイッチのハムを食べて、眠ってしまった。猫は人間のベッドで一緒に寝たかったらしいが、それはお断りすると、素直にソファに移動した。
じつはこの南インドの旅は、ちょうど2年前のインド洋地震・津波の3ヶ月ほど前のことであった。ポンディの宿の庭の端にはヤシの木が並び、その向こうにはインド洋が広がっていた。その朝や夕べの妙なる美しさ。津波はアチェやタイ西海岸だけでなくインドの東海岸も襲った。ポンディの町でもたくさんの人が命を奪われ、建物も被害を受けたはずである。海に近いあの宿も甚大な被害を受けたはずだ。
あの猫もどうなってしまっただろう。スリランカでもタイでも津波の甚大な被害を受けたのに、沿岸の動物は犬や猫をはじめゾウまで鎖を引きちぎって事前に逃げ、動物の死骸はほとんどなかったという。あのちゃっかりものの猫もさっさとどこかに逃げ出していたかもしれないが。海に持っていかれてしまったたくさんのいのちと暮らし。いつかまたあの町を訪ねるときが来るだろうか。