平地ではちょうど節分の頃咲くのでこの名があるのだろう。ちょうど、雪が溶けた林縁や林床に5センチくらいの背丈を伸ばし、1.5から2センチくらいの白い花を咲かせる多年草。しかし、種子で繁殖するので、開花時期に踏み潰すと翌年は咲かなくなるので注意が必要だ。目立つ花ではないので、遠くから見ていると見逃しそうになるが、近くで気付くと足元に大量の小人がいるようにも見える。ちょうど、佐藤さとるのコロボックル物語を思い出す。
この花を見ると、ひとりの先生を思い出す。奥原弘人、信州で教員を長く務め、同時に県内の植物に関する分類と生態の研究をした人だ。私が奥原先生を知ったのは、もう学校を定年されていた頃だ。信州の植物の目録とどこに生育しているのかの分布図を作ろうという「長野県植物誌」の仕事で、ちょうど、私の通っていた学校に県内各所から集まった植物標本の同定(その標本がなんという植物なのかを検討し、名前を付ける作業)をひとり黙々とされていた。もう、当時でも90歳近いと伺っていたが、毎日、女鳥羽川の浅瀬を歩いて渡り、大学にやってくるのが印象的で、昨日はどこそこに行って何とかを見てきた、きょうはどこそこに行ってなんとかが咲いているか見に行ってくる、どこそこになんとかがあるはずだが報告がないので行ってみてくる、など、到底、お歳だとは思えない行動力には恐れ入ったものだ。たまに、一緒に野山を歩く機会があると、若い私たちよりも早い速度でたかたか山道を歩かれる健脚ぶりに驚いたが、本人に言わせればそれでも足が弱ったらしかった。
最初の冬、ちょうど、集まった標本を台紙に貼る(止めるが正しいかもしれない)お手伝いをしていると、いつもは先に同定を済ませている奥原先生が「先に鉛筆で名前を書いておいてくれ」と言う。そこで、標本を台紙に貼りながら名前を付けておくと、それを確認して、丁寧に間違っていれば直して、私のところに渡してくれた。そんなことを長く続けて、長い冬が終わる頃にはほとんどの植物は名前が分かるようになっていたのだった。私にとって、奥原先生は植物の名前を教えてくれた恩師でもある。
そんな先生が、ある初春の日に、「セツブンソウが見ごろだよ」と教えてくれた。皆で見に行った。そこ見た、ちょうど、見ごろのセツブンソウが後にも、先にも、私にとって野生のセツブンソウを見た経験である。その後、先生とは学校を卒業してからも賀状のやり取りが続き、たまには顔を合わせる機会もあったが、何年か前に亡くなった。おそらく、100歳近くなっていたのだと思うが、最後の便りにも信州の野山を歩かれている様子がうかがわれた。
今年は写真の機材も随分と新しくなったし、久しぶりにセツブンソウを写真にでも収めたいと思う。長い冬の間、ずっと春の準備をしていると、セツブンソウの開花の便りが待ち遠しくなる。おそらく、そんな思いを胸に、奥原先生も最後まで野山を歩かれたのであろう。