記憶違い

昔は人が死ぬと 友人たちが遺稿集をまとめたり 伝記を出版してくれることもあった それらを読んだことがあっても 記憶は現在にあわせて作り替えられる 最近母の家に保存してあった昔の本を借りて読んだ それまで祖父(父の父)は家出をして名をありふれた高橋に替えたと思っていたが そんな事実はどこにもなかった 伯父が多摩川の河川敷にホームレスのテント村を作ったと思っていたが それはちがう場所にあった 伯父が銀杏の木の下で朝鮮の少年と話している情景はソウルのことだと思っていたが 京都の同志社の庭だった 

祖父 高橋鷹蔵は徳富蘆花の序文のある『御手のままに』という本を書いていた それによれば新潟の北にあった小出村の屋根葺き職人の子で おそらく1864年生れ 17歳で家出して米沢 福島 仙台 水沢と 丁稚奉公しながら放浪し そこでギリシャ正教の伝道師になるが 東京に出ると やがて新島襄の組合派に改宗し 1888年に京都の同志社でまなんでから 牧師として各地をまわることになる 1910年日韓併合のあと ピョンヤン(平壌)教会の牧師になった 眼鏡と長いヒゲで朝鮮服を着た写真が残っている 朝鮮語で『耶蘇伝』というパンフレットを書いた 1923年旅先の京都で急死したが それは1919年3月1日の反日運動で投獄された信徒救援のための旅と聞いたことがある 

伯父 高橋元一郎は1895年高千穂生れ 父の布教先である山鹿 柳川 宇和島 丸亀 熊本 小樽を転々とし 同志社神学校を中退して 同志社図書館司書になり 軍事教練導入に反対して同志社を去った 岡山の美作に滞在中 同志社で同窓生だった山本宣治が無産党代議士となった直後に暗殺されたことを知り こうしてはいられないと 京都に戻り さらに特高刑事の尾行付きで東京に出て 1930年 賀川豊彦の助けを借りて深川の浜園町にルンペンプロレタリアート いま言うホームレスのテント村を作り 昼間はゴミ拾い 夜は見回りをつづけた 翌年東京市当局の解散命令を受け 全員の引取先を見つけて別れた 満州事変(1931年)に対して反戦平和運動をはじめるが まもなく喉頭結核で倒れ 1933年に死んだ 看護士が部屋をあけたすきに病室の白壁に毛筆で 昇天 高橋元一郎 と書き付け 人が来た時はもう死んでいた 38歳 後に親泊康永の編集で『一杯の水』という遺稿集が出た 親泊康永は沖縄人で『義人謝花昇伝』の著者 謝花がアナーキストの影響を受けたような記述がいまでは事実無根と批判されている その後本田清一『街頭の聖者 高橋元一郎』という評伝も出たが 両方に賀川豊彦が序を書いている 

組合派(congregational)というのはピューリタンの一派で 会衆の直接民主主義によって各教会が独立している 自分にきびしく ひたむきな人間は 不幸の空気を漂わせ 周囲の人間を引き込む力があるようだ 

伯父が療養していた家の吉岡憲(佑晴)は 元一郎にはげまされて画家になったが その後ハルビンで暮らしたり 日本軍属としてインドネシアに行き絵を教え 美術学校を建てたりした 戦後は独立美術展に出品し 『マルゴワ』『笛吹き』『母子像』などで評価された 絵を描く時は祈りを忘れなかったが 酒を飲むたびに自宅アトリエを破壊するほどあばれ 1955年に電車に飛び込み自殺した